アンリ・ピレンヌ
アンリ・ピレンヌ（Henri Pirenne）は、1862年12月23日にベルギー東部のヴェルヴィエで生まれ、1935年10月24日に亡くなった、ベルギーを代表する歴史家の一人です。彼の研究は中世ヨーロッパの社会経済史、都市史、そしてベルギー国家の起源に深く関わっており、特に古代から中世への移行期に関する独自の学説は、後世の研究に大きな影響を与えました。
リエージュ大学で歴史学を修めた後、1883年から1885年にかけてパリ、ライプツィヒ、ベルリンで研鑽を積みました。この期間、ドイツの歴史家カール・ゴットハルト・ランプレヒトの中世経済史研究から大きな影響を受けました。わずか24歳という若さでヘント大学の教授に就任し、1931年に退職するまで、この大学を研究と教育の拠点としました。
彼の精力的な研究活動は多岐にわたり、1895年には『ベルギー史文献』を出版しました。これはランプレヒトの資料蒐集・紹介法に倣ったものであり、後に彼がライフワークとして取り組むこととなる壮大な『ベルギー史』（全7巻）の執筆に向けた基礎作業でもありました。この『ベルギー史』では、ベルギーという国家が持つ独自の成立過程と特質を探求しました。
第一次世界大戦中にドイツがベルギーを占領した際、ピレンヌはドイツへの非暴力抵抗運動を指導したため、ドイツ軍によって1916年から1918年にかけて抑留されるという経験をしました。しかし、この困難な状況下でも、彼は収容所内で歴史に関するゼミナールを主催し、研究を続けました。この収容所での講義録は、後に『ヨーロッパの歴史』として出版され、西ローマ帝国の解体からルネサンスまでのヨーロッパ史を包括的に捉えた著作として結実しました。戦後、ピレンヌはベルギー国内外の多くの大学から名誉博士号を授与され、国際的な歴史論争の中心人物として活躍する一方、ベルギーの愛国者としても強い影響力を持ち続けました。
ピレンヌの歴史学は、ドイツの実証主義的な歴史学に根ざしており、抽象的な「理念」よりも具体的な「事実」に重きを置きました。彼は歴史を動かす主要な要因は経済的な力、とりわけ商業と工業の発展にあると考えましたが、マルクス主義が説くような、封建制から資本主義への単純な図式的な発展論とは一線を画しました。特に、1914年の論文『資本主義発達の初段階』では、一般的に考えられていたよりも早い段階、すなわち12世紀には既に中世資本主義の初期形態が存在していたことを論証しました。この主張は、当時の著名な経済史家ヴェルナー・ゾンバルトから「資本主義の発展に関する驚くべき無知」と厳しく批判されるなど、大きな議論を呼びました。
また、ベルギー国家の起源についても独自の視点を示しました。彼は、ベルギーの起源を特定の「民族の本質」に求めるのではなく、マース川とシェルデ川という地理的条件が生み出した、ロマンス語圏とゲルマン語圏が絶え間なく交流する中間地帯であることに着目しました。この中間地帯としての特殊な地理的・経済的状況こそが、ベルギーという国家の独特な性質を生み出したのだと論じました。
彼の最も有名な業績は、古代世界から中世初期世界への移行期に関する学説、いわゆる「ピレンヌ・テーゼ」です。これは「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」という有名なフレーズで要約されます。ピレンヌは、一般的にローマ帝国の衰退やゲルマン民族の移動が古代の終わり、中世の始まりとされるのに対し、真の転換期はイスラム勢力による地中海の支配によって商業活動が停滞し、古代以来の経済ネットワークが破壊されたことにあると主張しました。この経済構造の変化が、古代の経済生活やそれに伴う古代文化の残滓を西ヨーロッパから消滅させ、新たな世界、すなわちシャルルマーニュ大帝の帝国を中心とする中世ヨーロッパ世界を誕生させたと考えたのです。このテーゼは発表直後から歴史学界で大きな賛否両論を巻き起こし、1928年のオスロ国際歴史学会での報告は特に熱い論争を呼びました。
歴史家としてのピレンヌは、その明快で親しみやすい文体でも知られています。複雑な歴史現象を、特定の理論体系に固執することなく、豊富な事実をもって語らせる彼の筆致は、多くの読者や研究者を引きつけました。
『資本主義発達の初段階』（1914年、邦訳 1955年）
『中世都市－社会経済史的試論』（1927年、邦訳 1970年ほか）
『中世都市 社会経済史的試論』（改訂版、講談社学術文庫、2018年）
『中世ヨーロッパ経済史』（1933年、邦訳 1956年、新版 1971年）
『ヨーロッパ世界の誕生－マホメットとシャルルマーニュ』（1937年、邦訳 1960年、新版 1986年ほか）
『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニユ』（改訂版、講談社学術文庫、2020年）
『中世都市論集』（1939年、邦訳 1988年）
『ヨーロッパの歴史 西ローマ帝国の解体から近代初頭まで』（邦訳 1991年）
生涯
リエージュ大学で歴史学を修めた後、1883年から1885年にかけてパリ、ライプツィヒ、ベルリンで研鑽を積みました。この期間、ドイツの歴史家カール・ゴットハルト・ランプレヒトの中世経済史研究から大きな影響を受けました。わずか24歳という若さでヘント大学の教授に就任し、1931年に退職するまで、この大学を研究と教育の拠点としました。
彼の精力的な研究活動は多岐にわたり、1895年には『ベルギー史文献』を出版しました。これはランプレヒトの資料蒐集・紹介法に倣ったものであり、後に彼がライフワークとして取り組むこととなる壮大な『ベルギー史』（全7巻）の執筆に向けた基礎作業でもありました。この『ベルギー史』では、ベルギーという国家が持つ独自の成立過程と特質を探求しました。
第一次世界大戦中にドイツがベルギーを占領した際、ピレンヌはドイツへの非暴力抵抗運動を指導したため、ドイツ軍によって1916年から1918年にかけて抑留されるという経験をしました。しかし、この困難な状況下でも、彼は収容所内で歴史に関するゼミナールを主催し、研究を続けました。この収容所での講義録は、後に『ヨーロッパの歴史』として出版され、西ローマ帝国の解体からルネサンスまでのヨーロッパ史を包括的に捉えた著作として結実しました。戦後、ピレンヌはベルギー国内外の多くの大学から名誉博士号を授与され、国際的な歴史論争の中心人物として活躍する一方、ベルギーの愛国者としても強い影響力を持ち続けました。
思想と業績
ピレンヌの歴史学は、ドイツの実証主義的な歴史学に根ざしており、抽象的な「理念」よりも具体的な「事実」に重きを置きました。彼は歴史を動かす主要な要因は経済的な力、とりわけ商業と工業の発展にあると考えましたが、マルクス主義が説くような、封建制から資本主義への単純な図式的な発展論とは一線を画しました。特に、1914年の論文『資本主義発達の初段階』では、一般的に考えられていたよりも早い段階、すなわち12世紀には既に中世資本主義の初期形態が存在していたことを論証しました。この主張は、当時の著名な経済史家ヴェルナー・ゾンバルトから「資本主義の発展に関する驚くべき無知」と厳しく批判されるなど、大きな議論を呼びました。
また、ベルギー国家の起源についても独自の視点を示しました。彼は、ベルギーの起源を特定の「民族の本質」に求めるのではなく、マース川とシェルデ川という地理的条件が生み出した、ロマンス語圏とゲルマン語圏が絶え間なく交流する中間地帯であることに着目しました。この中間地帯としての特殊な地理的・経済的状況こそが、ベルギーという国家の独特な性質を生み出したのだと論じました。
彼の最も有名な業績は、古代世界から中世初期世界への移行期に関する学説、いわゆる「ピレンヌ・テーゼ」です。これは「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」という有名なフレーズで要約されます。ピレンヌは、一般的にローマ帝国の衰退やゲルマン民族の移動が古代の終わり、中世の始まりとされるのに対し、真の転換期はイスラム勢力による地中海の支配によって商業活動が停滞し、古代以来の経済ネットワークが破壊されたことにあると主張しました。この経済構造の変化が、古代の経済生活やそれに伴う古代文化の残滓を西ヨーロッパから消滅させ、新たな世界、すなわちシャルルマーニュ大帝の帝国を中心とする中世ヨーロッパ世界を誕生させたと考えたのです。このテーゼは発表直後から歴史学界で大きな賛否両論を巻き起こし、1928年のオスロ国際歴史学会での報告は特に熱い論争を呼びました。
歴史家としてのピレンヌは、その明快で親しみやすい文体でも知られています。複雑な歴史現象を、特定の理論体系に固執することなく、豊富な事実をもって語らせる彼の筆致は、多くの読者や研究者を引きつけました。
主要著作（邦訳）
『資本主義発達の初段階』（1914年、邦訳 1955年）
『中世都市－社会経済史的試論』（1927年、邦訳 1970年ほか）
『中世都市 社会経済史的試論』（改訂版、講談社学術文庫、2018年）
『中世ヨーロッパ経済史』（1933年、邦訳 1956年、新版 1971年）
『ヨーロッパ世界の誕生－マホメットとシャルルマーニュ』（1937年、邦訳 1960年、新版 1986年ほか）
『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニユ』（改訂版、講談社学術文庫、2020年）
『中世都市論集』（1939年、邦訳 1988年）
『ヨーロッパの歴史 西ローマ帝国の解体から近代初頭まで』（邦訳 1991年）
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