イリソス川

イリソス川は、ギリシャ共和国の首都であるアテネの市街地南部を東西に横断するように流れる河川です。その名称はギリシャ語で「Ιλισός」、ラテン文字では「Ilisos」と表記されます。

この河川は、特に古代ギリシャ哲学の文脈において、重要な位置を占めています。紀元前4世紀頃に活動した哲学者プラトンの複数の著作において、その名が言及されています。最も著名なのは、プラトンの中期対話篇とされる『パイドロス』です。この作品では、哲学者ソクラテスと青年パイドロスによる魂、修辞学、愛についての対話が繰り広げられますが、その対話の舞台こそが、このイリソス川のほとり、ある木陰のある場所として設定されています。川の流れる穏やかな情景は、対話の雰囲気や主題に深く関わっており、作品全体に影響を与えています。川辺という自然の景観が、抽象的な哲学的議論の背景として選ばれていることは、当時のアテナイ市民の生活や文化における自然との関わり方を示唆しているとも考えられます。

また、プラトンの後期作品である『クリティアス』においても、イリソス川は重要な文脈で登場します。この対話篇は、伝説として語られる古代の高度な文明アトランティスと、それに対抗したとされる伝説上の大昔のアテナイについて述べるものです。この作品の中で、伝説として伝えられる太古のアテナイの地理的範囲が描写される際、アクロポリスの南側の境界線がイリソス川にまで及んでいたと記されています（『クリティアス』112Aにその記述が見られます）。この言及は、イリソス川が単なる自然の要素であるだけでなく、古代アテナイの都市や領域を定める上で、ある種の地理的な指標や境界線としての役割を担っていた可能性を示唆しています。

しかし、時代の移り変わりと共に、イリソス川の姿は大きく変化しました。特に近代に入り、アテネの都市が急速に発展し、市街地が拡大するにつれて、河川はその姿を変えざるを得なくなりました。都市機能の維持や衛生上の理由、あるいは洪水対策といった目的から、かつて地上を流れていたイリソス川の大部分は、地下に埋設された水路へと姿を変えました（いわゆる暗渠化）。これにより、市民の目からその流れが隠されてしまいました。さらに、河川の自然な流路も変更され、より効率的に水を排水するために、海へと直接注ぐように改められました。

今日のイリソス川は、かつてプラトンが見たような地上を流れる自然の河川としての姿は、ほとんど失われています。都市の地下深くにその水路が隠され、地上を歩く人々はその存在を意識することが少ないかもしれません。しかし、古代ギリシャの哲学的、歴史的な文献の中にその名が刻まれていることで、イリソス川は単なる失われた自然の一部としてではなく、アテネの歴史や文化、思想と深く結びついた場所として、現代にその名を伝えています。特にプラトンの『パイドロス』を読む人々にとっては、対話が交わされた「あの場所」として、想像の中で生き続ける存在であり続けています。

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