エーリッヒ・ツァンの音楽

エーリッヒ・ツァンの音楽：狂気に染まるヴィオラの調べ

H・P・ラヴクラフトの代表作の一つである『エーリッヒ・ツァンの音楽』は、1921年に執筆され、1922年に発表された怪奇小説です。貧しい大学生である主人公は、パリの老朽化した貧民街、オーゼイユ街にある安アパートに身を寄せます。隣室に住むのは、ドイツ出身の老ヴィオラ奏者、エーリッヒ・ツァン。彼は唖であり、舞台での演奏で生活を繋いでいます。

主人公は毎夜、ツァンの奏でるヴィオラの音色に悩まされます。それは、この世のものとは思えない不気味で暗澹たる調べであり、主人公を魅了すると同時に恐怖へと突き落とします。好奇心に駆られた主人公は、ツァンの部屋を訪れ、演奏を聴かせてほしいと頼みますが、ツァンは激しく拒絶します。その際に、主人公はツァンがカーテンで覆われた窓の外を警戒していることに気づきます。

その後も、主人公は廊下の陰からこっそりとツァンの演奏を盗み聞きします。日を追うごとに、その音楽は激しさを増し、一方ツァンは衰弱していきます。ある夜、主人公がいつものように音楽を盗み聞いていると、ツァンの演奏は荒々しい騒音へと変貌し、彼の悲鳴が響き渡ります。主人公がドアを叩くと、意識を取り戻したらしいツァンは、安堵した様子で主人公を部屋に招き入れます。

ツァンは筆談で、恐ろしい怪異に襲われたことを伝え、その一部始終を書き留めようと大量の草稿を書き始めます。約1時間後、外から美しい音楽が聞こえてくると、ツァンは慌てた様子でヴィオラを奏で始めます。まるで外から聞こえてくる音楽を打ち消そうとするかのように。彼の様子はますます狂乱を増し、今度ははるか西の空から悪魔のような音色が響き渡ります。そして、窓から突風が吹き込み、ツァンの草稿を全て外へ吹き飛ばします。

主人公は開いた窓の外に、この世のものではない真っ暗な空間が広がっているのを見ます。突風が蝋燭の火を消し、暗闇に包まれる中、ツァンは狂ったようにヴィオラを弾き続けます。しかし、主人公が触れると、ツァンの体は冷たく硬直しており、すでに息絶えていました。呪われたヴィオラの音が響き渡る中、主人公は街から逃げ出します。

その後、主人公はオーゼイユ街そのものを見つけることができなくなります。彼の記憶には欠落があり、そのことに対して、主人公は少しも残念に思っていません。

この物語は、オーゼイユ街という架空の街を舞台に、音楽、恐怖、そして狂気を巧みに織り交ぜています。パリをモデルにしていると考えられますが、作中では明言されていません。「Auseil」という街の名前は、フランス語の「au seuil（戸口）」から発想されたと推測されています。

ラヴクラフトの作品を体系化したオーガスト・ダーレスは、本作をクトゥルフ神話には含めていませんでしたが、後の作品や、他の作家による作品において、クトゥルフ神話の世界観と繋がりを持つことになります。特に、外なる神トルネンブラの誕生に繋がった重要な作品として、現在ではクトゥルフ神話関連作品として認識されています。また、多くの翻訳版が存在し、様々な形で読者に語り継がれています。物語の持つ独特の雰囲気と、音楽を効果的に用いた描写は、多くの読者やクリエイターに影響を与え続けています。 スティーブン・マーク・レイニーなど、音楽とクトゥルフ神話を融合させた作品を発表する作家にも大きな影響を与えました。ラヴクラフト自身も、本作を自身の最高傑作の一つとして評価しているというエピソードも残っています。

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