クインティリアヌス

マルクス・ファビウス・クインティリアヌス：古代ローマの修辞学者、教育者

マルクス・ファビウス・クインティリアヌス（Marcus Fabius Quintilianus、35年頃 - 100年頃）は、ヒスパニア出身のローマ帝国の修辞学者であり、教育者として知られています。彼の著作『弁論家の教育（Institutio Oratoria）』は、修辞学の理論と実践だけでなく、教育論、さらには道徳観をも包括的に論じたもので、中世からルネサンス期にかけて広く参照されました。

生涯

クインティリアヌスは、ヒスパニアのカラグリス（現在のスペイン・ラ・リオハ州カラオラ）で生まれました。父親は教養があり、息子のクインティリアヌスを修辞学を学ぶためにローマに留学させました。ローマでは、ドミティウス・アフェルという著名な弁論家と親交を深め、彼の弁論術を学びました。アフェルはキケロ風の古典的な弁論家であり、クインティリアヌスのキケロへの敬愛は、このアフェルの影響によるものと考えられています。

59年にアフェルが亡くなった後、クインティリアヌスは一時的にスペインに戻り、法律の実務経験を積みました。68年には、皇帝ガルバの随員として再びローマに戻りましたが、ガルバの側近ではなかったため、翌年のガルバ暗殺後も無事に生き残りました。

「四皇帝の年」と呼ばれる内乱期には、クインティリアヌスは修辞学校を開校しました。彼の教え子には、小プリニウスやタキトゥスが含まれていた可能性があります。皇帝ウェスパシアヌスの支援を受けて、学校経営は安定し、クインティリアヌスは教育活動に専念することができました。また、法廷で弁護士としても活動していました。

私生活についてはほとんど知られていませんが、彼は『弁論家の教育』の中で、若くして亡くなった妻と、父親よりも先に亡くなった2人の息子について触れています。

88年には、教育と弁護士の両方の職を退きました。引退の理由として、経済的な余裕ができたことや、晩年を悠々と過ごせるようになったことが考えられます。クインティリアヌスは、ウェスパシアヌスとティトゥスの統治下では比較的平和に暮らしましたが、ドミティアヌスの時代には、その残忍さと疑心暗鬼から距離を置いたと考えられます。しかし、ドミティアヌスがクインティリアヌスを遠ざけたわけではなく、90年にはドミティアヌスの姪の息子たちの家庭教師に任命されています。クインティリアヌスは、晩年を『弁論家の教育』の執筆に費やし、100年頃に亡くなったと考えられています。

著書

クインティリアヌスの現存する唯一の著作は、全12巻からなる修辞学の教科書である『弁論家の教育』です。この本は、修辞学の理論と実践だけでなく、基礎教育や弁論家としてのクインティリアヌス自身の成長についても詳細に記述しています。

初期の著作『雄弁衰退の原因について』は現存していませんが、『弁論家の教育』の準備段階の解説であったと考えられています。

また、『大規模弁論集』と『小規模弁論集』という2冊の著作もクインティリアヌスの作とされていますが、真の作者については議論があります。

『弁論家の教育』

序説

クインティリアヌスは、ドミティアヌスの治世末期に『弁論家の教育』を執筆しました。当時のローマ帝国は、ネロやカリグラ、ドミティアヌスなどの皇帝による圧政が横行し、社会や政治が腐敗していました。このような状況下では、キケロのような正義を重んじる弁論家は出現しにくくなっていました。クインティリアヌスは、過去の理想主義を再評価し、弁論術の本来の姿を復興しようと試みました。彼は、「政治的な雄弁は死んだが、教育的な理想として、過去の雄弁を選んだ」と述べています。

修辞学について

クインティリアヌスの時代には、修辞学は理論、教育、実践の3つの側面から構成されていました。クインティリアヌスは、特定の学派に固執することなく、幅広い文献を参考に『弁論家の教育』をまとめました。彼は、修辞学の研究と技術を簡略化することを避け、12巻という大著を通して、その詳細な理論と実践を解説しました。

当時の弁論術のスタイルは、華美な装飾を好む「白銀期」と呼ばれるものでしたが、クインティリアヌスは、より単純で明瞭な言語への回帰を提唱しました。彼は、自然な言語と自然な思考の重要性を強調し、過度な装飾を避けるべきだと主張しました。クインティリアヌスが理想とした弁論のスタイルは、簡潔さを重視したキケロのものでした。

『弁論家の教育』は、修辞学の技術面を包括的に解説した教科書です。転義法や文彩といった修辞技法についても詳細に論じられており、アリストテレスの『弁論術』やキケロの『弁論家について』と並ぶ、古代世界を代表する修辞学の著作とされています。弁論術の要素は、発想、配列、措辞、記憶、口演の5つに分けられ、特に発想、配列、措辞の3つについては、徹底的に解説しています。クインティリアヌスは、理論よりも実践的で応用できる面にこだわり、比喩的な言語を言語的な指示の定着に対する脅威とは見ていませんでした。

教育について

クインティリアヌスは、『弁論家の教育』の第1巻で、弁論家の育成方法を詳細に論じています。彼は、教育は子供が生まれてすぐに始めるべきであり、楽しいものであるべきだと述べました。また、家庭教育と学校教育の長所と短所を比較検討し、良い学校であれば、学校教育の方が社会的なスキルも学べるため有益だと主張しました。彼は、教師が生徒と友好的な関係を築き、教えることを楽しむことが重要だと考えました。

クインティリアヌスは、弁論家の育成において道徳教育を最も重視しました。彼にとって、良い人間だけが真の雄弁家になることができ、悪徳から解放された人間だけが弁論術に関わるべきだと考えました。彼は、弁論家の役割の衰退は、公衆道徳の衰退が原因であると主張しました。

『弁論家の教育』の限界

『弁論家の教育』は、修辞学の修養に偏りすぎているという指摘があります。また、クインティリアヌスは、修辞学を教育の基礎と見なし、哲学をその優位性への挑戦と見ていました。彼は、自身が教育的伝統の犠牲者であり、時代の流行であった華美な言語を完全に克服することができませんでした。また、クインティリアヌスが理想とする弁論家の概念は、現実離れしているという批判もあります。

クインティリアヌスの影響

クインティリアヌスの著作は、セネカの文体を批判的に取り上げ、当時の帝国的な弁論スタイルを修正しようと試みました。マルティアリスは、クインティリアヌスを「道に迷う若者たちの偉大なる指導者」と称賛しましたが、彼の詩には皮肉な側面も含まれていました。

クインティリアヌスの評価は、時代によって変動しましたが、教え子の小プリニウスや、おそらく教え子であったユウェナリスによって言及されました。中世には、彼の著作は断片的にしか存在しませんでしたが、ルネサンス期に再評価されました。ペトラルカは、クインティリアヌスが「新しい人文主義的教育のインスピレーションを提供した」と述べています。マルティン・ルターは、クインティリアヌスを「教育と、同時に論証的雄弁術の著者として」他のどの著者よりも好んだと主張しました。19世紀には、クインティリアヌスの影響は一時的に衰退しましたが、近年再び評価されるようになり、文芸批評や教育史において重要な存在となっています。

クインティリアヌスは、「子供中心の教育の最も初期のスポークスマン」とみなされ、彼の初期児童教育理論が論じられています。また、彼の著作は修辞学的体系を包括的に解説しているため、職業作家や修辞学の学生にとっても有益なものとなっています。


クインティリアヌスは、古代ローマの修辞学と教育思想を代表する人物であり、彼の著作は、現代においても重要な示唆を与えてくれます。

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