シーモア・ベンザー

シーモア・ベンザー：行動遺伝学の先駆者

シーモア・ベンザー（Seymour Benzer、1921年10月15日 - 2007年11月30日）は、物理学で培った精密な視点を生物学に応用し、特にショウジョウバエを用いた独創的な研究を通じて、遺伝子が生物の行動をどのように制御しているのかという根源的な問いに光を当てた、20世紀後半を代表する科学者です。彼は物理学者、遺伝学者、分子生物学者としての顔を持ち、晩年はカリフォルニア工科大学（Caltech）の神経科学分野におけるジェームズ・G・ボズウェル冠教授として、後進の育成にも力を注ぎました。

生い立ちと学術への道

ベンザーは1921年、アメリカ合衆国ニューヨーク州サウス・ブロンクスで生を受けました。両親はポーランドのソハチェフからのユダヤ系移民であり、彼は移民コミュニティの中で育ちました。学業においては卓越した才能を示し、当初ニューヨーク市立大学ブルックリン校に進学しますが、後にパデュー大学へと転校します。パデュー大学で物理学を専攻し、優秀な成績で卒業。さらに同大学の大学院に進み、1947年には固体物理学の分野で博士号（Ph.D.）を取得しました。物理学者としてのキャリアを歩み始めた彼でしたが、第二次世界大戦中に軍のプロジェクトで半導体の研究に携わるなど、応用物理学の領域でも貢献しています。

生命の神秘に魅せられて：生物学への転身

物理学の研究者として順調な道を歩んでいたベンザーのキャリアは、一冊の本との出会いによって劇的に変化します。それは、物理学者エルヴィン・シュレーディンガーの著書『人生とは何か？－物理学者の見た生物の世界』でした。この古典的な著作に深く感銘を受けたベンザーは、生命の謎を解き明かすことに強く惹きつけられ、研究対象を物理学から生物物理学へと大胆にシフトすることを決意します。彼は当時、ファージ遺伝学研究の中心地であったコールド・スプリング・ハーバー研究所に移り、著名な分子生物学者マックス・デルブリュックに師事します。デルブリュックの指導の下、バクテリオファージというウイルスを用いて遺伝子の微細構造や変異に関する研究を進め、遺伝子の基本単位である「シストロン」の概念を提唱するなど、分子遺伝学の基礎を築く上で重要な貢献を果たしました。

行動遺伝学の創始とショウジョウバエ研究

デルブリュックのもとでの研究を通じて、ベンザーは生命の最も基本的な単位である遺伝子の理解を深めましたが、彼の飽くなき探求心は、より複雑な生命現象、特に生物の行動へと向かいました。彼は研究対象をバクテリオファージから、遺伝学研究のモデル生物として長年用いられてきたショウジョウバエ（キイロショウジョウバエ）へと変更することを決断します。これは当時としては非常に挑戦的な選択でした。彼は、ショウジョウバエに様々な化学物質や放射線を照射して意図的に突然変異を起こさせ、正常な個体とは異なる特定の行動を示す変異体を選び出すという、画期的な手法を開発しました。例えば、光に反応しない「視覚異常変異体」、特定の匂いに反応しない「嗅覚異常変異体」、概日リズムが乱れる「時計変異体（period遺伝子など）」、さらには学習や記憶に障害を持つ変異体など、多様な行動異常を示すショウジョウバエ系統を次々と単離しました。

これらの行動突然変異体を遺伝学的に解析することにより、ベンザーは特定の行動が特定の遺伝子によって制御されていることを世界で初めて明確に示しました。彼の研究は、「行動遺伝学」という新しい科学分野を確立する上で決定的な役割を果たしました。彼の独創的なアプローチは、それまで漠然としていた行動という複雑な現象を、遺伝子レベルで理解するための道筋をつけたのです。

キャリアと受賞歴

ベンザーはパデュー大学で助教授、後に教授を務めた後、オークリッジ国立研究所やパスツール研究所など、国内外の著名な研究機関でも研究活動を展開しました。1966年には、後にノーベル賞を受賞する神経科学者ロジャー・スペリーの研究室があるカリフォルニア工科大学（Caltech）に移籍し、翌1967年からは同大学の教授として、その後のキャリアの大半をカリフォルニアで過ごしました。Caltechでは、ショウジョウバエを用いた行動遺伝学研究をさらに深化させ、神経科学と遺伝学を結びつける最先端の研究を推進しました。

ベンザーの科学における功績は高く評価され、生涯にわたって数多くの権威ある賞を受賞しています。その受賞歴には、ガードナー国際賞（1964年、2004年の二度にわたり）、アルバート・ラスカー基礎医学研究賞（1971年）、ルイーザ・グロス・ホロウィッツ賞（1976年）、アメリカ国家科学賞（1982年）、ウルフ賞医学部門（1991年）、クラフォード賞（1993年）、国際生物学賞（2000年）、グルーバー賞神経科学部門（2004年）、オールバニ・メディカルセンター賞（2006年）など、枚挙にいとまがありません。これらの輝かしい受賞は、彼の研究が遺伝学、分子生物学、神経科学といった広範な分野に与えた影響の大きさを物語ります。また、1961年には英国王立協会の外国人会員に選出されています。

彼の科学者としての生涯とその独創的な研究は、ピューリッツァー賞受賞作家であるジョナサン・ワイナーによって『時間・愛・記憶の遺伝子を求めて―生物学者シーモア・ベンザーの軌跡』（原題：”Time, Love, Memory: A Great Biologist and His Quest for the Origins of Behavior”）という伝記として克明に描かれ、多くの読者に感動を与えました。

ベンザーは、その生涯の最後まで科学への情熱を持ち続け、86歳を迎えた2007年11月30日、脳梗塞のため惜しまれつつこの世を去りました。彼の残した遺産は、行動遺伝学、時間生物学、神経科学、そして遺伝子と脳機能の関連性を探求する今日の研究において、今なお大きな影響を与え続けています。物理学者の視点から生命の根源に迫り、複雑な行動を遺伝子の言葉で読み解こうとした彼の先駆的な仕事は、現代生命科学の礎の一つとして永遠に記憶されるでしょう。

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