ジギスモント・タールベルク

19世紀ロマン派の時代、ピアノは隆盛を極め、多くの名手が活躍しました。その中でも、フレデリック・ショパンやフランツ・リストと並び立つ存在として名を馳せたのが、スイス出身のピアニスト兼作曲家、ジギスモント・タールベルク（Sigismond Thalberg, 1812年 - 1871年）です。彼は技巧的な演奏で観客を魅了し、特に「3本の手」と呼ばれる独特の奏法は当時の人々を驚かせました。オペラの旋律を巧みに取り入れた幻想曲や変奏曲を数多く生み出しましたが、一方で、オリジナルの協奏曲、室内楽、歌曲なども手掛けています。生前は熱狂的な人気を誇ったものの、没後は急速に忘れ去られていきましたが、近年その作品は再び注目を集めつつあります。

生涯

タールベルクの誕生には謎が多いとされています。公式には1812年1月8日、スイスのジュネーヴ近郊パキスで生まれたとされていますが、有力な説では、彼の母親はオーストリア貴族のヴェツラー男爵夫人マリア・ジュリア、父親は名門ディートリヒシュタイン伯爵家の一員、フランツ・ヨーゼフだったとされており、私生児として生まれたと推測されています。幼少期についてはほとんど記録が残されていませんが、10歳頃には母に伴われてウィーンに滞在し、ベートーヴェンの交響曲第9番の歴史的な初演（1824年）を聴いたという本人の証言があることから、早くから音楽的な環境に身を置いていたことがうかがえます。最初の音楽の手ほどきは、アマチュアながら優れたピアニストであったとされる母親から受けた可能性が指摘されています。

1826年、14歳になったタールベルクは、高名なピアニスト兼作曲家であったイグナーツ・モシェレスに学ぶためロンドンへ渡りました。モシェレスは当時の書簡で、すでにタールベルクが自立して活躍できるほどの実力を備えていたことに触れています。同年5月17日にはロンドンで初めて公開演奏を行い、その才能の片鱗を見せました。その後も、ヨーゼフ・フンメル、フリードリヒ・カルクブレンナー、カール・チェルニーといった、当時のピアノ界の重鎮たちの指導を受け、その技術を磨いていきました。作曲活動も早期から行っており、1828年には《ウェーバーのオイリアンテによる幻想曲 Op.1》を出版しています。1830年代初頭にはウィーンでジーモン・ゼヒターに師事し、対位法を深く学んだことが、初期の作品に反映されましたが、後にロベルト・シューマンによる批判などもあり、次第に対位法的な書法を減らしていったことが、結果的に聴衆に歓迎されたとも言われます。

1835年11月、タールベルクは芸術の中心地であったパリに赴きます。翌1836年1月に行われたパリ音楽院での演奏会で披露した《大幻想曲 Op.22》は、居合わせたジョアキーノ・ロッシーニやジャコモ・マイアベーアといった大作曲家たちから熱狂的な喝采を浴びました。作曲家エクトル・ベルリオーズもタールベルクを絶賛しましたが、同時代のライバルとなるショパンは批判的な態度をとりました。当時の雑誌記事は、タールベルクを「これまでの誰とも比較できない新しい芸術を創造した」「世界第一級のピアニストであると同時に傑出した作曲家」と形容し、その登場を衝撃的に報じました。同年4月に行われたパリでの初のソロ・コンサートはセンセーショナルな成功を収め、その収益額は当時の演奏会としては破格の1万フランに達しました。この成功は、ヨーロッパ各地で名声を確立しつつあったリストを刺激し、後に有名なライバル関係へと発展することになります。

1837年、リストは雑誌記事でタールベルクの作品を批判し、パリに戻ったタールベルクとの間で競争意識が高まりました。同年、タールベルクはリストの演奏を初めて聴いてその凄まじさに圧倒されたとされます。しかし自身も精力的に演奏活動を続け、この頃作曲された《ロッシーニの「エジプトのモーゼ」による幻想曲 Op.33》は、タールベルクの代表作として没後も長らく演奏され続けました。有名なオペラ歌手ルイージ・ラブラーケの娘との結婚（1843年）を経て、タールベルクは家庭を持ちました。

1858年のアメリカ演奏旅行を終えた後、タールベルクはイタリア南部のナポリ近郊、風光明媚なポジリポに移り住み、公の場から一時的に姿を消しました。4年間の沈黙の後、1862年に再び演奏活動を再開しましたが、翌1863年のブラジル演奏旅行を最後に、ピアニストとしてのキャリアに終止符を打つことを決意します。その後、彼は教育の道を選び、ナポリ音楽院のピアノ科教授のポストを希望します。当初はイタリア国籍を持たないことを理由に認められませんでしたが、請願の甲斐あって1年後には承認され、晩年まで後進の指導にあたりました。1871年4月27日、タールベルクはポジリポの地で60年弱の生涯を閉じました。彼の死後、収集していた膨大な作曲家たちの署名コレクションは売却されました。

没後の受容

タールベルクの死後、対照的にリストの作品が長く演奏され続けたのに対し、タールベルクの作品は驚くほど速くピアニストのレパートリーから姿を消しました。その原因としては、オペラ主題の変奏曲・幻想曲という形式が時代遅れになったこと、リストに比べて和声構造が比較的単純であったこと、そして彼の生前の地位が当時の保守的なメッテルニヒ政権に近い人物と見なされたことが、新しい時代において不利に働いた可能性などが指摘されています。20世紀に入ると、彼の名前を聞く機会すらほとんどなくなってしまいました。しかし、ピアノ教則本で有名なシャルル＝ルイ・アノンが「タールベルクの指使い」を付した練習曲集を出版していることからわかるように、教育的な側面や技術的な影響は一部で残っていました。

CD時代を迎える中で、タールベルクの作品に対する再評価の動きが生まれてきます。特にイタリアのピアニスト、フランチェスコ・ニコロージは、タールベルク国際ピアノコンクールを主催するなど、その作品の発掘と普及に精力的に取り組んでいます。日本でもかつてタールベルク協会が存在し、楽譜出版なども行っていました。また、高須博をはじめ、タールベルクをレパートリーに加えるピアニストが少しずつ増えており、彼の音楽が現代の聴衆にも再発見されつつあります。代表作としては、《ロッシーニの「エジプトのモーゼ」による大幻想曲 Op.33》や、《ヘクサメロン変奏曲》（リスト、チェルニー、ショパンらとの共作）、多くのオペラ主題による幻想曲・変奏曲が挙げられます。彼の作品は、ヴィルトゥオーゾ時代の華やかさとともに、旋律の美しさを際立たせる独特の手法を持っており、その魅力は今再び多くの人々に認識され始めています。

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