ジムロック (出版社)

ジムロック（N. Simrock）

ジムロック（N. Simrock）は、かつてドイツに存在した、クラシック音楽の歴史において非常に重要な役割を果たした音楽出版社です。18世紀末に設立されて以来、特に19世紀のドイツ語圏における音楽シーンの中心で、ハイドン、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスといった、今日でも世界中で演奏され続ける名作曲家たちの傑作を数多く出版し、その普及に決定的な貢献をしました。

会社の歩み

ジムロックの歴史は、1793年にボンでニコラウス・ジムロック（Nicolaus Simrock）によって始まりました。設立当初から事業は軌道に乗り、19世紀を迎えると、息子のペーター・ヨーゼフ・ジムロック（Peter Joseph Simrock）のリーダーシップのもとで、会社の規模は着実に拡大していきます。さらに、ペーターの息子であるフリッツ・ジムロック（Fritz Simrock）は、1870年に会社の拠点を首都ベルリンに移転させ、出版活動の中心をベルリンに据えました。

フリッツ・ジムロックの死後、会社の経営は甥であるハンス・ジムロック（Hans Simrock）に引き継がれます。ハンスの時代には、1907年にライプツィヒの有力な音楽出版社であったバルトルフ・ゼンフ（Bartholf Senff）を買収するなど、更なる事業展開が行われました。その後、音楽出版業界の再編が進む中で、ジムロックは1911年にアルベルト・アーン（Albert Ahn）の出版社と合併し、「アーン・ウント・ジムロック（Ahn & Simrock）」として新たな体制を築きました。この時期はボンとベルリンに本社を置く形となりましたが、この合併関係は後に解消されています。

そして、世界恐慌の影響もあってか、ジムロック社は1929年にライプツィヒの出版者アントン・J・ベンヤミン（Anton J. Benjamin）に売却されることになります。会社の経営権はベンヤミン社に移り、その後の歴史を辿ります。第二次世界大戦の戦禍は、ジムロック社にも大きな打撃を与えました。残念ながら、ボンにあった本社や倉庫は破壊され、長年にわたって蓄積されてきた楽譜の印刷版や貴重な文書資料の大半が失われてしまったのです。これにより、戦後に楽譜を再版する際には、残存するわずかな資料や古い印刷物から内容を懸命に復元する必要が生じました。

ベンヤミン社は、戦後の1951年にハンブルクで事業を再開し、ジムロックのカタログの一部を引き継いで活動を続けました。しかし、時代の流れとともに音楽出版業界も変化し、最終的にベンヤミン社は2002年に世界的な音楽出版社であるブージー・アンド・ホークス（Boosey & Hawkes）に吸収され、ジムロックという名称を持つ組織の歴史は幕を閉じました。

現在、ジムロック社の歴史を伝える文書類の多くは、ドイツのライプツィヒにあるザクセン州立公文書館に所蔵されています。しかし、第二次世界大戦での壊滅的な損失や、1990年代から2000年代初頭にかけて一部の資料が分散してしまったこともあり、その全貌を把握することは困難となっています。

特筆すべき出版作品

ジムロック社が音楽史において特に高く評価されるのは、その出版した作品リストの質と重要性です。以下に、ジムロックから出版された主要な作曲家とその代表的な作品の一部を挙げます。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト: オペラ『魔笛』の手書き譜を元にしたと考えられる版を出版。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン: 重要な作品群を出版。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン: 彼の作品のうち、特に重要な13タイトルの初版を手がけました。
ロベルト・シューマン: 交響曲第3番変ホ長調『ライン』など、彼の主要な管弦楽作品や室内楽作品を出版。
ヨハネス・ブラームス: 交響曲、協奏曲、室内楽曲、歌曲など、彼の代表作の多くがジムロックから世に出ました。ブラームスとフリッツ・ジムロックは個人的な親交も深かったと言われています。
フェリックス・メンデルスゾーン: オラトリオ『エリヤ』や『聖パウロ』といった大規模作品を含む多くの作品を出版。
マックス・ブルッフ: ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調など、彼の最も有名な作品を出版。
アントニン・ドヴォルザーク: 交響曲や室内楽など、チェコの国民的作曲家である彼の作品も積極的に出版しました。
ヨハン・シュトラウス2世: 『皇帝円舞曲』、『もろびと手をとり（美しく青きドナウの合唱版）』といった、ウィンナ・ワルツの傑作を出版。
ヨゼフ・スーク: ドヴォルザークの弟子であるチェコの作曲家の作品も手がけました。

これらの出版活動を通じて、ジムロック社は作曲家たちの創造的な営みを支え、その成果を世界中の音楽家や聴衆に届けました。そのカタログは、19世紀から20世紀初頭にかけてのクラシック音楽の豊かな遺産そのものであり、音楽出版社の役割の重要性を改めて教えてくれるものです。

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