ジョルジェ・マルティノヴィッチ事件

ジョルジェ・マルティノヴィッチ事件とは

1985年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国コソボ自治州で、セルビア人農夫ジョルジェ・マルティノヴィッチが病院に搬送された事件。肛門にガラス瓶が挿入され、割れた状態で発見されたことが発端となり、ユーゴスラビアの政界を巻き込む大論争へと発展した。

事件の経緯

マルティノヴィッチは当初、畑で作業中にアルバニア語を話す男2人に襲われたと主張。しかし、後にユーゴスラビア人民軍の事情聴取に対し、自慰行為中に誤って瓶を挿入したと供述したとされる。公式調査では、彼が畑で性的満足を得ようとし、ビール瓶を乗せた棒に座った際に事故が起きたと結論付けられた。

しかし、ベオグラードの軍医アカデミーでの更なる調査では、医師団は傷が自傷によるものとは断定できず、「500mlの瓶が強制的かつ乱暴に挿入された」と結論付けた。医師団は、少なくとも2人以上の人物が関与しなければ、そのような挿入は不可能であるとした。さらに、スロベニアの内科医ヤネス・ミルチンスキによるセカンドオピニオンでは、マルティノヴィッチが棒の上の瓶に座り込んだ際、滑って転倒し、体重で瓶が割れたとの見解が示された。秘密警察や軍の情報機関も、自傷の可能性が高いと結論付けた。

マルティノヴィッチは後に供述を撤回し、3時間に及ぶ尋問で強要されたものだと主張。子供たちの雇用を約束されたと述べた。彼の息子は、父がセルビア人であるという理由だけで攻撃されたと主張し、アルバニア人ナショナリストによる報復であると述べた。

最終的に、セルビア当局は事件の立件を見送り、1989年にコソボの自治権が停止された後も、「加害者」を特定する動きはなかった。

事件への反応

セルビアのメディアは、この事件を民族主義的、反アルバニア的な論調で報道。ユーゴスラビアの社会主義政府下ではタブーとされていた民族主義が公然と語られるようになった。この事件は、ユーゴスラビアにおける民族主義の高まりを象徴し、後の連邦崩壊へと繋がった。

セルビアの新聞「ポリティカ」は、マルティノヴィッチを襲撃したアルバニア人は、彼の土地を買収しようとして拒否された地元の家族ではないかと報道。コソボにおけるセルビア人の人口比率が減少していた背景から、セルビア人を追い出して資産を手に入れようとするアルバニア人の存在が信じられていた。

事件は、オスマン帝国によるセルビア支配とのアナロジーとして語られ、串刺し刑との類似性が指摘された。民族主義的な詩では、事件がオスマン帝国による迫害のメタファーとして扱われた。

スティエパン・メシュトロヴィッチは、串刺し刑がオスマン帝国による最も過酷な刑罰であり、セルビア文化における迫害のメタファーであると指摘した。

事件は、セルビア人やキリスト教徒が歴史的に受けてきた苦難との対比としても用いられ、マルティノヴィッチは「アルバニア人（≒ムスリム、トルコ人）の害悪に耐えるセルビア人」の象徴とされた。作家ブレナ・ツルンチェヴィッチは、マルティノヴィッチの経験を「1人の男に対するヤセノヴァツ」と表現。画家ミチャ・ポポヴィッチは、アルバニア人がマルティノヴィッチを十字架に吊るし上げる絵を描いた。

セルビアの知識人による請願書では、「ジョルジェ・マルティノヴィッチの事件は、コソボに住む全てのセルビア人のものとなった」と断言。コソボの自治権停止を求めるデモでは、「我らの兄弟が鋭い串で串刺しにされる中、もう黙ってみてはいられない」と訴えられた。

セルビア作家協会でも事件が取り上げられ、コソボのセルビア人の状況が「第二次世界大戦期のファシズムの経験」と比較された。作家ドブリツァ・チョシッチは、コソボのセルビア人への支援を表明し、マルティノヴィッチが告訴するのを支援した。

一部のセルビア人は、事件をムスリムの男色嗜好の象徴とみなし、セルビア人精神科医ヨヴァン・ラシュコヴィッチは、「ムスリムは精神的発達段階における肛門期に固着している」と述べた。多くのセルビア人は、事件を「アルバニア人がセルビア人を迫害し、アルバニア人が支配するコソボ州政府が見ぬふりをする」典型例と捉えた。

一方、コソボのアルバニア人は、事件がマルティノヴィッチによる自作自演であり、セルビア人ナショナリストが反アルバニア感情を煽る機会として利用したと見なした。また、セルビア人とアルバニア人の関係を象徴するものとして利用されたと考えた。

ユーゴスラビアの他の地域では、セルビアにおける民族主義的なレトリックの高まりを警戒し、マルティノヴィッチ事件がセルビアに有利な体制への変更を求める民族主義的感情を煽るために利用されたと見なされた。

事件の真相と遺したもの

ジョルジェ・マルティノヴィッチ事件は、真相が解明されないまま、ユーゴスラビアにおける民族対立の深刻さを浮き彫りにした。事件は、セルビア人とアルバニア人の間に深い溝を刻み込み、その後のコソボ紛争へと繋がる要因の一つとなった。

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