セクストス・エンペイリコス

セクストス・エンペイリコス：古代の懐疑主義の巨匠

セクストス・エンペイリコス（2世紀～3世紀頃）は、ローマ帝国時代に活躍したギリシアの哲学者であり、医学者でもありました。アレクサンドリア、ローマ、アテネなど、地中海世界各地を旅しながら、知の探求に生涯を捧げました。彼の著作は、ほぼ完全に現代まで伝えられており、古代懐疑主義を理解する上で欠かせない貴重な資料となっています。

セクストスは、医学の分野でも活躍し、伝承によれば経験主義学派に属していたとされます。しかし、自身の著作においては「方法主義学派」に近い立場を示唆しており、彼の思想の複雑さを示しています。

主要な著作

セクストスの代表的な著作として、以下の2作品が挙げられます。

『ピュロン主義哲学の概要』: ピュロン主義の思想体系を体系的に解説した入門書。懐疑主義の核心である「判断停止」の重要性を説き、心の平安（アタラクシア）への道を示しています。
『数学者に対して』: 様々な学問分野の専門家（数学者、論理学者、医学者、倫理学者など）の主張を批判的に検討し、懐疑主義の立場から反論を試みた大作です。この作品は、6巻からなる『教師たちに対して』と、7巻から11巻までの『独断主義者に対して』に分けられることもありますが、現存しているのは不完全な状態です。少なくとも1巻、最大で5巻分の内容が失われていると考えられています。

『数学者に対して』は、それぞれの分野の専門家に対する反論として構成されており、『文法学者』『修辞学者』『幾何学者』『算術家』『天文学者』『音楽家』『論理学者』『医学者』『倫理学者』など、当時の主要な学問分野を網羅しています。これらの著作を通して、セクストスは当時の知識体系の限界を鋭く指摘し、あらゆる学問に共通する懐疑主義の視点を提示しました。

セクストスの思想：判断停止と心の平安

セクストスの哲学の中核をなすのは「判断停止」(epochē)です。あらゆる信念に対して、真偽の判断を保留すべきだと主張します。これは、知識そのものを否定するアカデメイア派の懐疑主義とは異なります。セクストスは、知識の可能性を否定するわけではありません。しかし、真なる信念として何かを知ることは不可能だと考え、代わりに、信念を放棄し、判断を停止することを提案します。

判断停止によって得られるのは、心の平安（アタラクシア）です。セクストスは、あらゆる事柄について判断を停止することは不可能ではないと主張します。なぜなら、私たちは、いかなる信念にも頼らず、習慣に従って生きていくことができるからです。

セクストスは、感覚や感情に関する主張を完全に否定するわけではありません。「私はこう感じる」「私はこう知覚する」といった主観的な経験を認めます。しかし、これらの主張は、客観的な知識や外在的な実在を意味するものではないと指摘します。例えば、「この蜂蜜は甘い」という経験は、主観的な判断に過ぎず、蜂蜜そのものについての客観的な知識を与えるわけではないのです。

セクストスの思想の解釈については、様々な議論があります。マイルズ・バーニェットやジョナサン・バーンズといった注釈家は、セクストスの懐疑主義を徹底的なものと解釈する一方で、ミヒャエル・フレーデは、理性や哲学によるものではない信念、例えば懐疑論者共同体の信念であればセクストスは認めた可能性を指摘しています。

セクストスの遺産と影響

セクストスの著作は、16世紀以降、ヨーロッパで広く読まれ、ミシェル・ド・モンテーニュやデイヴィッド・ヒュームといった近代の哲学者に大きな影響を与えました。特に、『ピュロン主義哲学の概要』は、1562年にアンリ・エティエンヌによってラテン語訳が出版されたことで、広く知られるようになりました。また、ピエール・ベールの『歴史批評辞典』も、セクストスの思想を広める上で重要な役割を果たしました。

セクストスの懐疑主義は、現代においても、哲学、科学、そして日常生活において、様々な問いを投げかけています。彼の著作は、古代ギリシアの知の遺産として、今もなお多くの研究者や思想家たちによって読み継がれ、現代社会に示唆を与え続けています。

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