タバコモザイクウイルス
タバコモザイクウイルス（Tobacco Mosaic Virus、TMV）は、植物、特にタバコに特有のモザイク状の病斑をもたらす病原体です。このウイルスは一本鎖のプラス鎖RNAをゲノムに持ちます。科学史上、初めてその姿が確認されたウイルスであり、生命科学、特にウイルス学の発展において極めて重要な役割を果たしました。最も古くから知られ、詳細に研究が進められてきた植物ウイルスの一つです。
TMVの感染によって引き起こされるタバコモザイク病は、タバコをはじめとする様々な植物の葉に、明るい緑と濃い緑が入り混じったモザイク模様の斑点を生じさせます。これにより葉の生育が悪化し、植物全体の健康に影響を与えます。TMVには病原性の強弱など、性質が異なる多くの変異株が存在します。興味深いことに、異なる系統が同時に一つの細胞内で効率的に増殖しないという特性があり、この性質を利用して、病原性の低い系統を予防接種のように用いることで、強力な病原性を持つ系統からの被害を軽減する試みもなされています。
TMVの研究史は、ウイルス学そのものの黎明期と重なります。
1886年、ドイツの農学者アドルフ・マイヤーは、タバコモザイク病に罹った植物の樹液を健康な葉に塗布することで病気が伝染することを発見しました。
1892年、ロシアの微生物学者ドミトリー・イワノフスキーは、この病原体が細菌や真菌を濾過できる微細なフィルターを通過することを見出しました。これは、病気の原因が既知の微生物ではないことを示唆し、後のウイルス概念の基礎となりました。彼のこの発見は、しばしばウイルス学の始まりと位置づけられています。
1898年には、マイヤーの共同研究者であったオランダのマルティヌス・ベイエリンクが、この感染因子が単なる化学毒素ではなく、液体中で増殖する未知の存在であると提唱し、「ウイルス」という言葉を用いました。
決定的な進展は1935年に訪れます。アメリカの生化学者ウェンデル・スタンリーがTMVを初めて結晶として分離することに成功し、さらにその結晶が活性を保持したまま感染能力を持つことを証明しました。この功績により、彼は1946年にノーベル化学賞を受賞しました。ウイルスの結晶化は、その後の物理化学的研究の道を拓きました。
1955年には、H.フレンケル＝コンラートとロブリー・ウィリアムズが、精製されたTMVのRNAと外被タンパク質（カプシド）が試験管内で自然に集合し、感染性のあるウイルス粒子を形成することを明らかにしました。これは、ウイルスの構造が最も安定な状態（エネルギー的に最も低い状態）であることを示唆し、宿主細胞内でのウイルス粒子の組み立てメカニズム理解に重要な示唆を与えました。
著名な結晶学者ロザリンド・フランクリンもまた、スタンリーの研究室でTMVのX線回折研究に取り組み、その構造解析に貢献しました。彼女はTMVが中空の円筒状構造を持ち、内部に一本鎖RNAが収まっているというモデルを提案しましたが、その正確性が完全に証明されたのは彼女の死後のことでした。
TMVのウイルス粒子は、特徴的な棒状の形態をしています。その長さは約300ナノメートル、直径は約18ナノメートルです。粒子の外側は、多数の同一なタンパク質分子（カプシドタンパク質）がらせん状に規則正しく配置されて構成されています。このらせんは、1周あたりおよそ16.3個のタンパク質分子で形成されています。一つ一つのカプシドタンパク質は158個のアミノ酸から成り、4つのαヘリックスがループ部分を介して繋がった構造を持っています。電子顕微鏡観察により、ウイルス粒子の中央には直径約4ナノメートルの空洞がある筒状構造であることが示されています。一本鎖のゲノムRNAは、この筒の内部、中心軸から約6ナノメートル離れた位置にらせん状に巻き込まれて格納されており、カプシドタンパク質の保護によって細胞内の酵素による分解から守られています。カプシドタンパク質分子1個あたり、約3つのヌクレオチドが結合しています。ゲノムRNA上には、カプシドタンパク質をコードする遺伝子のほか、RNA複製に必要なRNAポリメラーゼや、植物体内でのウイルスの移動に関わるタンパク質などの遺伝子情報が含まれています。
TMVは、タバコ植物から比較的簡単に大量に分離精製できること、また動物には感染しないことなど、実験研究上の利点が多く、その構造や自己会合メカニズム、分子生物学的な性質について膨大な研究が行われてきました。
TMVの特定の系統（Dahlemense株）のカプシドタンパク質の化学名は、その全てのアミノ酸配列を連ねたもので、非常に長い単語として知られています。1972年に化学抄録誌に登録されたこの名称は、1185文字に及び、英語文献で用いられた単語としては有数の長さを誇ります。
タバコモザイクウイルスは、トバモウイルス属というグループに属しています。この属には、タバコモザイクウイルスの他にも、トマトモザイクウイルス（ToMV）、キュウリ緑斑モザイクウイルス（CGMMV）、ペッパーマイルドモトルウイルス（PMMoV）などが含まれ、それぞれトマト、キュウリ、ピーマン（トウガラシ）などにモザイク病を引き起こします。かつては、これらのウイルスも広義にタバコモザイクウイルスの一種とみなされ、「TMV-トマト系」のように区別されていました。これらのウイルスは、その名称に含まれる作物だけでなく、メロン、スイカ、アズキ、ホウレンソウ、ラッキョウなど、非常に多様な植物種に感染することが知られています。現在までに、少なくとも9科、125種類以上の植物がTMVやその近縁ウイルスの宿主となることが確認されています。
タバコモザイク病
TMVの感染によって引き起こされるタバコモザイク病は、タバコをはじめとする様々な植物の葉に、明るい緑と濃い緑が入り混じったモザイク模様の斑点を生じさせます。これにより葉の生育が悪化し、植物全体の健康に影響を与えます。TMVには病原性の強弱など、性質が異なる多くの変異株が存在します。興味深いことに、異なる系統が同時に一つの細胞内で効率的に増殖しないという特性があり、この性質を利用して、病原性の低い系統を予防接種のように用いることで、強力な病原性を持つ系統からの被害を軽減する試みもなされています。
歴史
TMVの研究史は、ウイルス学そのものの黎明期と重なります。
1886年、ドイツの農学者アドルフ・マイヤーは、タバコモザイク病に罹った植物の樹液を健康な葉に塗布することで病気が伝染することを発見しました。
1892年、ロシアの微生物学者ドミトリー・イワノフスキーは、この病原体が細菌や真菌を濾過できる微細なフィルターを通過することを見出しました。これは、病気の原因が既知の微生物ではないことを示唆し、後のウイルス概念の基礎となりました。彼のこの発見は、しばしばウイルス学の始まりと位置づけられています。
1898年には、マイヤーの共同研究者であったオランダのマルティヌス・ベイエリンクが、この感染因子が単なる化学毒素ではなく、液体中で増殖する未知の存在であると提唱し、「ウイルス」という言葉を用いました。
決定的な進展は1935年に訪れます。アメリカの生化学者ウェンデル・スタンリーがTMVを初めて結晶として分離することに成功し、さらにその結晶が活性を保持したまま感染能力を持つことを証明しました。この功績により、彼は1946年にノーベル化学賞を受賞しました。ウイルスの結晶化は、その後の物理化学的研究の道を拓きました。
1955年には、H.フレンケル＝コンラートとロブリー・ウィリアムズが、精製されたTMVのRNAと外被タンパク質（カプシド）が試験管内で自然に集合し、感染性のあるウイルス粒子を形成することを明らかにしました。これは、ウイルスの構造が最も安定な状態（エネルギー的に最も低い状態）であることを示唆し、宿主細胞内でのウイルス粒子の組み立てメカニズム理解に重要な示唆を与えました。
著名な結晶学者ロザリンド・フランクリンもまた、スタンリーの研究室でTMVのX線回折研究に取り組み、その構造解析に貢献しました。彼女はTMVが中空の円筒状構造を持ち、内部に一本鎖RNAが収まっているというモデルを提案しましたが、その正確性が完全に証明されたのは彼女の死後のことでした。
TMVの構造
TMVのウイルス粒子は、特徴的な棒状の形態をしています。その長さは約300ナノメートル、直径は約18ナノメートルです。粒子の外側は、多数の同一なタンパク質分子（カプシドタンパク質）がらせん状に規則正しく配置されて構成されています。このらせんは、1周あたりおよそ16.3個のタンパク質分子で形成されています。一つ一つのカプシドタンパク質は158個のアミノ酸から成り、4つのαヘリックスがループ部分を介して繋がった構造を持っています。電子顕微鏡観察により、ウイルス粒子の中央には直径約4ナノメートルの空洞がある筒状構造であることが示されています。一本鎖のゲノムRNAは、この筒の内部、中心軸から約6ナノメートル離れた位置にらせん状に巻き込まれて格納されており、カプシドタンパク質の保護によって細胞内の酵素による分解から守られています。カプシドタンパク質分子1個あたり、約3つのヌクレオチドが結合しています。ゲノムRNA上には、カプシドタンパク質をコードする遺伝子のほか、RNA複製に必要なRNAポリメラーゼや、植物体内でのウイルスの移動に関わるタンパク質などの遺伝子情報が含まれています。
TMVは、タバコ植物から比較的簡単に大量に分離精製できること、また動物には感染しないことなど、実験研究上の利点が多く、その構造や自己会合メカニズム、分子生物学的な性質について膨大な研究が行われてきました。
カプシドタンパク質名称について
TMVの特定の系統（Dahlemense株）のカプシドタンパク質の化学名は、その全てのアミノ酸配列を連ねたもので、非常に長い単語として知られています。1972年に化学抄録誌に登録されたこの名称は、1185文字に及び、英語文献で用いられた単語としては有数の長さを誇ります。
近縁種と宿主範囲
タバコモザイクウイルスは、トバモウイルス属というグループに属しています。この属には、タバコモザイクウイルスの他にも、トマトモザイクウイルス（ToMV）、キュウリ緑斑モザイクウイルス（CGMMV）、ペッパーマイルドモトルウイルス（PMMoV）などが含まれ、それぞれトマト、キュウリ、ピーマン（トウガラシ）などにモザイク病を引き起こします。かつては、これらのウイルスも広義にタバコモザイクウイルスの一種とみなされ、「TMV-トマト系」のように区別されていました。これらのウイルスは、その名称に含まれる作物だけでなく、メロン、スイカ、アズキ、ホウレンソウ、ラッキョウなど、非常に多様な植物種に感染することが知られています。現在までに、少なくとも9科、125種類以上の植物がTMVやその近縁ウイルスの宿主となることが確認されています。
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