ダゴン (小説)

ラヴクラフトの金字塔『ダゴン』：深海からの恐怖の呼び声

H・P・ラヴクラフトの初期傑作にして、クトゥルフ神話の先駆けともいえる『ダゴン』。第一次世界大戦下の太平洋、ドイツ軍の捕虜となった船員が、嵐のさなかに脱出を試みるも、奇妙な湿地帯に漂着するところから物語は始まる。この作品は、1917年に執筆され、1919年に同人誌、1923年には商業誌に掲載されたことで、ラヴクラフトの実質的なデビュー作となった。

主人公は広大な湿地をさまよい、やがて巨大な石碑がそびえる谷間にたどり着く。その石碑には、グロテスクな海洋生物と、理解不能な古代文字が刻まれている。そして、主人公は、石碑に描かれたものと瓜二つの、巨大な両生類のような生物を目撃するのだ。その異様な姿、圧倒的な大きさ、そして、石碑への奇怪な崇拝行為は、主人公の心に深い恐怖を刻み込む。

目撃した光景はあまりにも現実離れしており、主人公は救助された後も、その異常な体験に苦しめられる。幻覚と現実の境目が曖昧になり、モルヒネに頼りながらも、自らの体験を書き記す。しかし、その手記は絶望に満ちた言葉で終わる――「あれは何だ、窓に、手が!!」。この衝撃的な結末は、読者の想像力を掻き立て、長く尾を引く恐怖を植え付ける。

『ダゴン』は、単なる怪奇小説にとどまらない。ラヴクラフト特有のコズミック・ホラー、すなわち、人類の理解を超えた宇宙的恐怖を鮮やかに描き出している点に大きな意義がある。圧倒的なスケール感、人間の無力さ、そして、深淵を覗くような恐ろしさ。それらは、後のクトゥルフ神話作品群へと繋がる重要な要素として、この作品に息づいている。

本作の大きな特徴は、その曖昧性にある。ダゴンとは何か？海洋生物の名前なのか、石碑に祀られている神なのか？作品内では明示的には語られない。主人公がペリシテ人の神ダゴンを知っていたという事実は、古代の伝承と現代の怪異が交錯する不気味さを強調している。また、後にラヴクラフトが執筆する『クトゥルフの呼び声』にも、類似したプロットが見られる。軟泥の陸地、巨大な石造物、そして、人間の理解を超えた存在。研究者の中には、『クトゥルフの呼び声』は『ダゴン』のセルフリメイクであると指摘する者もいる。

『ダゴン』は、ラヴクラフトが執筆活動を再開した契機となった作品でもある。それ以前のラヴクラフトは、1909年から1916年にかけて執筆活動を中断していたが、ウィリアム・ポール・クックからの勧めで執筆活動を再開し、本作と『霊廟』を相次いで完成させた。この作品が、後のラヴクラフト文学における一大潮流を生み出すきっかけとなったことは、言うまでもないだろう。

『ダゴン』は、単なる怪奇小説の枠を超え、後のクトゥルフ神話やコズミックホラーに多大な影響を与えた記念碑的作品である。その不気味で不可解な物語、そして、人間の無力さを見せつける圧倒的な描写は、読者に忘れられない恐怖体験をもたらすだろう。翻訳も複数存在し、青空文庫でも読むことができるので、ぜひ手にとって、その深淵に触れてみてほしい。その異形の姿、そして、物語の背後に潜む、底知れぬ恐怖を味わうことができるだろう。

関連作品:

クトゥルフの呼び声
インスマウスの影
霊廟

収録作品集:

定本ラヴクラフト全集
ラヴクラフト全集
クトゥルー神話傑作選

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