トラベラー (映画)

『トラベラー』（ペルシア語: مسافر、英語: The Traveller）は、イランを代表する映画監督、アッバス・キアロスタミが1974年に世に送り出した初期の重要な長編ドラマ作品です。この映画の主人公は、イランの地方都市に暮らす、ずる賢く、時に無鉄砲な10歳の少年、ハッサン・ダラビ。彼の頭の中は、ただ一つのことでいっぱいでした。それは、遥か離れた首都テヘランで開催される、サッカーイラン代表の運命をかけた大一番の試合を生で観戦することです。

その熱狂的な情熱に突き動かされ、ハッサンはこの壮大な目標を実現するため、手段を選ばなくなります。彼は、無邪気に彼を信じる級友や、日頃から顔を合わせる近所の人々に対して、次々と嘘を重ね、巧妙な騙し討ちを図ります。例えば、友人のカメラをこっそり持ち出したり、周囲から金を巻き上げるための計画を実行したりと、彼の行動はエスカレートしていきます。そこには、自分の目的のためならば、他人の感情や財産を犠牲にすることも厭わない、衝撃的なまでの利己主義が見て取れます。これらの欺瞞的な行動は、彼の強い願望の裏返しであると同時に、幼いながらにして既に芽生えている人間のエゴイズムを容赦なく映し出しています。

こうして手に入れたわずかな資金を手に、ハッサンは単身テヘランを目指す旅に出ます。彼の道のりは決して平坦ではありません。予期せぬ出来事に遭遇したり、新たな困難に直面したりしながらも、彼の目的への執念は衰えることなく、様々な状況を切り抜けていきます。この旅の描写は、文字通りの移動だけでなく、ハッサンという一人の少年が直面する現実世界との摩擦や、彼自身の内面的な葛藤（表面には現れにくいが）を示唆しているようでもあります。数々の危うい場面や心細くなるような瞬間を乗り越え、ハッサンはついに目的地であるテヘランに到着します。そして映画は、彼が待ち望んでいたサッカーの試合がまさに始まろうとしているその瞬間、興奮と期待に満ちたスタジアムの入口に辿り着いたところでクライマックスを迎えます。

この『トラベラー』という作品が観客に強く訴えかけるテーマは複数あります。最も顕著なのは、ある目標に向かって突き進む人間の強烈な推進力、そしてその裏側にある、目的達成のためならば周囲を顧みないという残酷な側面です。ハッサンのひたむきなまでの情熱と、友人や隣人に対する彼の無関心さとの対比は、人間行動の普遍的な矛盾を浮き彫りにします。映画は、少年が犯す倫理的な逸脱行為を通して、正しい行動とは何か、個人の欲望の追求はどこまで許されるのか、といった問いを投げかけます。ハッサンの姿は、自己中心的な振る舞いがもたらす結果に対する彼の無頓着さを示しており、これは観る者に自身の行動規範や他者との関係性について深く考えさせます。

キアロスタミ監督は、この物語を説教臭く語るのではなく、抑制されたリアリズムで描き出しています。カメラはハッサンの行動を静かに追い、彼を善悪の基準で単純に判断するのではなく、その複雑な内面と外界との関わりをありのままに提示します。この演出スタイルは、観客にハッサンの行動の動機や結果について、自分自身で解釈し、評価することを促します。結果として、『トラベラー』は単なる少年の冒険譚を超え、人間のエゴイズム、目的達成への執念、そして社会における倫理観のバランスといった、時代や文化を超えた普遍的なテーマを探求する深みのある人間ドラマとして、今日でも高い評価を受けています。ハッサンの強烈なまでの目的意識と、それとは対照的な他者への無頓着さは、観る者に人間の光と影の両面を見せつけ、倫理観とは何かを改めて考えさせられるでしょう。本作は、キアロスタミ監督が後の作品でさらに深化させていく、子どもを主人公にした寓話的なスタイルの原点とも言える作品であり、その後のフィルモグラフィーを理解する上でも非常に重要な一本です。

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