ドリス・ハンフリー

ドリス・バッチェラー・ハンフリー

ドリス・バッチェラー・ハンフリー（Doris Humphrey、1895年10月17日 - 1958年12月29日）は、20世紀前半に活躍したアメリカのダンサー、振付家、そして教育者です。イザドラ・ダンカンやルース・セント・デニスといった初期の開拓者に続き、マーサ・グレアムらとともにモダンダンスの黎明期を築いた第2世代の中心人物の一人として知られています。彼女は、人間の身体と重力の関係、特に均衡が崩れてから再び回復するまでの動きに深く着目し、「フォールとリカヴァリー」という独自の理論とテクニックを確立しました。この理論は、今日のダンス教育においても重要な基礎として教えられています。また、彼女の多くの作品が詳細に記録されているため、現在も研究や上演が行われ、後世にその芸術性が伝えられています。

生い立ちと初期の歩み

ハンフリーはイリノイ州オークパークに生まれ、シカゴで育ちました。父親はジャーナリスト兼ホテルの支配人、母親は訓練を受けたピアニストという家庭環境でした。特に母親からの勧めもあり、シカゴで優れたバレエ教師に師事しました。その一人であるメアリー・ウッド・ヒンマンは、後に彼女のキャリアに大きな影響を与えることになります。高校時代には、既にプロのダンサーとして舞踊団の西部ツアーに参加するなど、早くから才能を示しました。この時のツアーはサンタ・フェ鉄道労働者クラブの支援によるもので、母親も伴奏者として同行しました。

経済的な事情から、18歳だった1913年には自身のダンス学校を設立しました。母親が経営と伴奏を担当し、子供向けに古典舞踊や体操舞踊、社交ダンス、大人向けにも社交ダンスのクラスを開設し、成功を収めました。

デニショーン舞踊学校での発展

1917年、恩師メアリー・ウッド・ヒンマンの推薦を受け、ハンフリーはカリフォルニア州にある著名なデニショーン舞踊学校に入学します。ここでは、ダンス技術を磨き、舞台に出演するだけでなく、自らも指導にあたり、振付の技術を習得しました。この時期に生み出された作品には、『気まぐれなワルツ』（スカーフを使用）、『飛翔』、『スケルツォ・ワルツ』（輪を使用）などがあり、これらは今日でも上演されることがあります。デニショーンには10年間在籍し、その間には2年間のアジア巡演にも参加しました。帰国後、ヴォードヴィル劇場での公演も高く評価されました。

独立と革新：フォールとリカヴァリー

1928年、デニショーンの手法に新たな表現を求めたハンフリーは、盟友であるチャールズ・ワイドマンと共に学校を離れ、ニューヨークへ移り住みました。ここから二人はモダンダンス界で重要な役割を果たすことになります。ハンフリーの振付は、重力に抗い、あるいは身を委ねる人間の体の動きに焦点を当て、その探求は「フォールとリカヴァリー」（落下と復帰）という独自の舞踊原理として結実しました。これは、安定した状態からバランスを失い、不安定な状態を経て、再び均衡を取り戻す過程における身体の動きや呼吸に焦点を当てたものです。この原理を体現した初期の代表作としては、『G線上のアリア』、『水の研究』、『シェイカー教徒』などが挙げられます。

ハンフリー・ワイドマン舞踊団と作品

チャールズ・ワイドマンと共に設立した舞踊団は、大恐慌という困難な時代にあっても活動を続けました。国内ツアーを行い、新しい表現スタイルを確立する一方で、古典的な題材ではなく、同時代の社会問題や出来事をテーマにした作品を積極的に創作しました。1930年代半ばには、モダンダンス史に残る「新舞踊3部作」として、『我が紅蓮の炎とともに』、『新しいダンス』を発表しています（3作目の『劇場作品』は記録が失われています）。また、ハンフリーはフランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策の一環である公共舞踊事業（Federal Dance Project: FDP）に参加しました。これは、舞踊家への経済的支援を目的とした初の国家事業であり、彼女もその推進に貢献しました。

舞台からの引退、教育、そして晩年

関節炎の悪化により、ハンフリーは1944年に舞台での踊りから引退せざるを得なくなりました。しかし、その後も振付家としての創作意欲は衰えず、特に自身の後継者であるホセ・リモンが率いるホセ・リモン舞踊団の芸術監督として、数々の傑作を生み出しました。『地上の日』、『夜の魔法』、『イグナシオ・サンチェス・メヒーアスのための挽歌』といった作品は、この時期の代表作です。晩年の作品である『ニューヨークの夜明け』でも、彼女が得意とした大規模で複雑な群舞や、明確なフォルムを強調する構成力は健在でした。

教育者としても、彼女はモダンダンスの普及と発展に貢献しました。1934年に設立されたベニントン大学のベニントン舞踊学校や、1951年に設立されたジュリアード音楽院舞踊部門の創設期スタッフとして指導にあたっています。また、1952年には子供向けの舞踊団「メリー・ゴー・ラウンダーズ」の監督も務めました。

遺産

ドリス・ハンフリーは1958年にこの世を去りましたが、その直後に彼女の舞踊哲学と創作理論をまとめた遺著『創作ダンスの技法（The Art of Making Dances）』が出版されました。この著作の中で、彼女は「フォールとリカヴァリー」を「2つの死（均衡と非均衡）の間にかかるアーチ」と表現し、舞踊における動きの根源的な原理を探求しています。彼女の作品のうち35点は、舞踊記譜協会によってラバノーテーションで詳細に記録されており、現在でもその振付を正確に再現することが可能です。歴史家マーシャ・B・シーゲルは著書『地上の日』の中で、ハンフリーをモダンダンス史における最も重要な人物の一人として位置づけています。その功績は高く評価され、1987年にはハンフリー国立舞踊博物館の殿堂入りを果たしています。

彼女の作風は、音楽を視覚的に表現する試みや、社会や人間関係における対立といったテーマを掘り下げることに特徴がありました。ドリス・ハンフリーは、その革新的な理論と精力的な活動によって、モダンダンスの地盤を固め、後世のダンサーや振付家に計り知れない影響を与えた、真の開拓者と言えるでしょう。

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