ハービー・ピーカー

ハービー・ローレンス・ピーカー（1939年 10月8日 - 2010年 7月12日）は、アメリカのアンダーグラウンド・コミック界を代表する原作者であり、優れた音楽評論家でもありました。自身の極めて平凡な日常、そして時には苦悩や観察を赤裸々に綴った自伝的コミックシリーズ『アメリカン・スプレンダー』は彼の生涯の代表作となり、2003年には同名の映画として高く評価されました。

彼はしばしば「クリーブランドの桂冠詩人」や「ラストベルトの吟遊詩人」と称され、その率直で飾り気のない作風は「グラフィックノベルや自伝的な絵による表現に対する人々の見方や評価を大きく変えるのに貢献した」と評されています。ピーカー自身は自身の作品について、出来事をそのまま描いた自伝であり、そのテーマは生き延びる努力、生計を立てること、伴侶を見つけること、社会での居場所探し、そして創造的な表現のはけ口を見つけることにあると語っていました。「人生はまさに消耗戦だ」と彼は述べ、「混沌とした世界で己の意志を貫こうとした。これは勝ち目のない戦だが、後退するわけにはいかない。諦めかけたこともあったが、どうしても立ち止まれなかった」とその執念を明かしています。

生涯

オハイオ州クリーブランドで、ポーランドからの移民である両親、サウルとドーラの間に生まれたハービー・ピーカーは、幼少期にイディッシュ語を第一言語として習得しました。文字や読書を覚えたのもイディッシュ語からでした。父はタルムード学者であり、キンズマン・アベニューの食料品店の上階に家族で暮らしていました。仕事に没頭する両親との間に深い繋がりはなかったものの、互いへの献身ぶりには感銘を受けていたといいます。

幼い頃の彼は友達がおらず、また人種構成の変化の中で、地域に残された数少ない白人の子供として頻繁に暴力を受けました。この経験は彼に「根深い劣等感」を植え付けた一方で、「一目置かれるケンカ屋」へと成長するきっかけともなりました。

1957年に高校を卒業後、ケース・ウェスタン・リザーブ大学に進学しますが、一年で退学。海軍に入隊するも、極度の不安障害のため除隊となります。故郷クリーブランドで低賃金の職を転々としますが、最終的に退役軍人局病院でカルテ整理係の職を得ました。コミック作家として名声を得た後もこの仕事を続け、2001年に退職するまで昇進を頑なに拒み続けたとされています。

ピーカーは生涯に3度結婚しています。特に3番目の妻で作家、社会活動家、そしてコミック原作者でもあるジョイス・ブラブナーとは、彼が亡くなるまでの27年間を共に過ごしました。二人は養女ダニエル・バートンとともにクリーブランドハイツで暮らしました。ジョイスとの共作であるグラフィックノベル『アワー・キャンサー・イヤー』では、自身のリンパ腫との過酷な闘病生活が描かれています。

執筆活動：『アメリカン・スプレンダー』を中心に

ピーカーが自伝的コミックという独自の道を切り拓いた契機は、アンダーグラウンド・コミックの巨匠ロバート・クラムとの出会いにあります。1960年代半ば、クリーブランドで共にジャズレコードを愛好する者として親交を深めたピーカーは、クラムの作品に触発され、コミックという表現形式の持つ可能性に気づきました。「映画にできることは全てコミックでも可能だと理解した時、自分もこの世界で何かを表現したいと思った」と彼は語っています。

実際に自身の作品を生み出すまでには10年もの歳月を要しました。彼はまず、描きたい出来事をコマ割りし、棒人間で構成を示したものをクラムやロバート・アームストロングといったアーティストに見せました。彼らの協力によってピーカーの構想は絵として具現化され、クラムとの共作「クレイジー・エド」がデビュー作として発表されました。

1976年5月、ピーカーは自費出版で自身のコミックブックシリーズ『アメリカン・スプレンダー』を創刊します。故郷クリーブランドの高齢化が進む地域で暮らす自身の何気ない、しかし真実味あふれる日常を克明に描写したこのシリーズは、当初は経営的に苦労したものの、次第に読者を増やし、後には毎号1万部を発行するほどの人気を博しました。ロバート・クラムをはじめ、スペン、ジョー・サッコ、ディーン・ハスピエルなど、数多くの著名なアーティストたちがピーカーの原作に絵をつけ、その世界観を形作りました。

『アメリカン・スプレンダー』で自らの人生を描き続けたピーカーですが、他者の伝記作品も複数手掛けています。特に退役軍人局病院での同僚ロバート・マクニールのベトナム戦争体験を描いた『アンサング・ヒーロー』や、自身の青年時代を詳細に辿った『ザ・クイッター』などは高い評価を得ています。

その他の活動と影響

コミック作家としての成功を背景に、ピーカーは1986年に人気テレビ番組『レイト・ナイト・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』に初出演しました。その後も度々出演し、レターマンとの間で交わされた白熱した、時にはコミカルな論争は番組の名物となりました。特にGEによるNBC買収を巡る論争は大きな話題を呼びましたが、ピーカー自身はテレビというメディア、特に商業主義的な環境でレターマンのような才能が埋もれていることに批判的な視点を持っていたと後に語られています。

また、ピーカーは熱心なレコード収集家としても知られ、長年にわたりフリーランスのジャズ評論家として活躍しました。ジャズ黄金時代の巨匠から非主流派のアーティストまで、その評論は多岐にわたり、文学批評も手掛けました。自身の評論や人生哲学を語った公共ラジオでの随筆は受賞歴もあります。

2003年に公開された映画版『アメリカン・スプレンダー』は、ピーカーの特異な人生と作品世界を見事に描き出し、主演のポール・ジアマッティと共にピーカー本人や妻ジョイスも出演するというユニークな構成で大きな話題となりました。ピーカーは、この映画化が自身の生活に与えた影響を追ったコミック『アワー・ムービー・イヤー』も発表しています。

2010年 7月12日、クリーブランドハイツの自宅で亡くなっているのが発見されました。死因は偶発的な抗うつ剤の過剰摂取とされています。彼は生涯を通じて様々な病と闘い、この時も3度目の癌の宣告を受けて治療を開始するところでした。彼の墓石には、生前の彼の言葉「人生で大事なのは、女、ギグ、それとクリエイティブであることだ」が刻まれています。

ピーカーの死後も、生前に手掛けられていた複数の遺作が刊行されています。クリーブランドの歴史と自身の関係を描いた『ハービー・ピーカーズ・クリーブランド』などがその例です。彼がほぼ毎日通っていたというクリーブランドハイツ-ユニバーシティハイツ図書館には、彼の功績を称える彫像が建立されています。

コミックス史において、ハービー・ピーカーは「平凡な人々の日常」を真正面から描き、それを芸術表現として確立した先駆者として特別な位置を占めています。彼の作品は、それまでスーパーヒーローやファンタジーが中心だったコミックの世界に、個人的な体験や内面を描く「自伝的コミック」「グラフィックメモワール」という新たなジャンルを切り拓きました。ブログやSNSで誰もが自身の日常を発信する現代から見れば当たり前のことかもしれませんが、そのような表現が一般化する以前の1970年代半ばに、ピーカーは既にそれを実践していたのです。彼の影響は、その後の多くの自伝的コミック作家に及び、コミックというメディアの多様性を大きく広げました。

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