バール・シェム

バール・シェム（Baal Shem）

『バール・シェム』は、スイス生まれの著名な作曲家エルネト・ブロッホ（Ernest Bloch, 1880-1959）によって、1923年にアメリカ合衆国オハイオ州クリーブランドにて筆を起こされた、独奏ヴァイオリンとピアノという編成のために書かれた珠玉の作品です。

そのタイトルは、18世紀に東欧で興隆したユダヤ教神秘主義運動であるハシディズムの創始者、イスラエル・ベン・エリエゼル師、通称バアル・シェム・トーブ（「善き名の主」の意）に深く触発されたものです。ブロッホは、生涯を通じてユダヤ文化や伝統、精神世界に根ざした数多くの作品を創作しましたが、中でもこの『バール・シェム』は、同時期のヴァイオリン協奏曲やヘブライ組曲と並び、彼の創造活動において重要な位置を占める「ヘブライ霊感作品群」の一つと目されています。これらの作品群において、ブロッホはユダヤ民族の歴史や苦悩、そして深い信仰に根ざした感情を、独自の音楽語法で表現しようと試みました。彼の「ヘブライ時代」と呼ばれるこの時期に生み出された作品は、その後の彼のキャリアにおいても重要な評価を得ています。

編成と版

この作品は当初、ヴァイオリンとピアノのために作曲されましたが、後に作曲者自身の手により、独奏ヴァイオリンと管弦楽のための版も制作されています。管弦楽版は1939年に完成しました。

ピアノ版の楽器編成

ヴァイオリン
ピアノ

管弦楽版の楽器編成

独奏ヴァイオリンに加え、以下の楽器によって演奏されます。

フルート 2（うち1人はピッコロに持ち替え）
オーボエ 2
クラリネット 2
ファゴット 2
ホルン 4
トランペット 3
ティンパニ 3台
シンバル
トライアングル
ハープ
チェレスタ
弦五部（ヴァイオリン第一部、ヴァイオリン第二部、ヴィオラ、チェロ、コントラバス）

献呈と初演

『バール・シェム』は、作曲者ブロッホの母親に心からの敬意を込めて献呈されました。ヴァイオリンとピアノによる原曲版は、高名なヴァイオリニスト、アンドレ・リブピエール氏のために特別に作曲され、1923年5月24日に作曲が完了しました。この原曲版の初演は、作品が捧げられたリブピエール氏自身の独奏と共により、翌1924年2月6日に行われました。

管弦楽伴奏版の初演については、指揮者レジナルド・ステュアート氏率いるニューヨーク交響楽団の演奏と、ヴァイオリン独奏をヨーゼフ・シゲティ氏が務める形で行われました。これにより、より大規模な編成での演奏が可能となり、作品の持つ情感が豊かに表現される機会を得ました。

楽曲構成

作品は全体で3つの楽章から成り立っており、それぞれにユダヤの伝統に関連する象徴的なタイトルが付けられています。

1. Vidui (懺悔): この楽章は、ユダヤ教における罪の告白や悔い改めの祈りを指す「ヴィドゥイ」と題されています。静謐で厳かな雰囲気の中にも、深い内省と悲哀が込められた旋律がヴァイオリンによって奏でられます。
2. Nigun (即興): 「ニグン」とは、ハシディズムの伝統において特に重要視される、歌詞を持たないメロディによる歌や祈りです。霊的な高揚や瞑想を目的とし、繰り返しや即興的な要素を含むことが多いのが特徴です。この楽章は、情熱的でありながらもどこか神秘的な自由な旋律が展開し、深遠な精神世界への没入を表現しています。
3. Simchas Torah (歓喜): 「シムハット・トーラー」とは、ユダヤ暦において、トーラー（律法）の年間朗読を終え、再び最初から始めることを祝う大変喜ばしい祭日です。この楽章は、その名の通り、活気あふれるリズミカルで躍動的な音楽で、祭りの賑わいや共同体の歓喜、そして律法への愛と祝福を描き出しています。

『バール・シェム』は、これら三つの楽章を通して、バアル・シェム・トーブとその教えに由来する精神性、すなわち内省、祈り、そして生命への歓喜といった側面を音楽で表現しようとした、ブロッホのユダヤ系作曲家としてのアイデンティティが色濃く反映された重要な作品です。ヴァイオリンの表現力が最大限に引き出されており、演奏会でも頻繁に取り上げられています。

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