パンと裏通り

『パンと裏通り』は、イランが世界に誇る映画監督、アッバス・キアロスタミが1970年に発表した作品であり、彼の記念すべき映画監督デビュー作である。

原題はペルシア語で「نان و کوچه」（Nān o Kūcheh）、英題は「The Bread and Alley」と称される。わずか10分間の短い上映時間ながら、その後のキアロスタミの作風を予見させる重要な要素が凝縮された短編映画として、彼のフィルモグラフィーにおいて特別な位置を占めている。

本作は白黒で撮影されており、当時のイランの街並みや、少年と犬が繰り広げる緊迫した対峙の空気感を際立たせている。物語は極めてシンプルでありながら、観る者に強い印象を残す。

主人公は一人の小さな少年。彼は手にしたパンを大切そうに抱え、家路を急いでいる。しかし、慣れ親しんだはずの裏通りに入ったところで、一匹の腹を空かせた野良犬と遭遇してしまう。犬は少年の持つパンを狙っており、その場から動こうとしない。少年はパンを守り、安全に家に帰るために、この予期せぬ脅威に独りで立ち向かわなければならない状況に追い込まれる。

映画の大部分は、この少年と犬の間で繰り広げられる静かながらも張り詰めた駆け引きで構成される。大人からの助けはなく、少年は自身の知恵と勇気でこの困難を乗り越えようとする。カメラは少年の視点や感情に寄り添うように彼を追いかけ、観る者は彼の孤独や恐怖、そして小さな決意を共有することになる。

この作品の大きな特徴の一つは、その徹底したリアリズムにある。大袈裟な演出や説明的なセリフは排され、まるでドキュメンタリーを見ているかのように、日常の中で突如として現れる困難と、それに対する子供の反応が淡々と、しかし克明に描かれる。これは、後にキアロスタミ監督作品の代名詞ともなる、フィクションとドキュメンタリーの境界を曖昧にする作風の萌芽と言えるだろう。

また、『パンと裏通り』は、キアロスタミがその後のキャリアで繰り返し描くことになる「子供」というテーマを初めて本格的に扱った作品でもある。子供を主人公に据え、彼らの純粋な視点を通して世界の不条理や大人の論理では捉えきれない現実を描き出すという手法は、この短編から始まった。多くの子供が登場するキアロスタミ作品の中でも、本作における少年の姿は特に印象深く、後の『友だちのうちはどこ？』や『オリーブの林をぬけて』といった代表作へと繋がる重要な一歩となった。

短い時間の中に、子供が見る世界の厳しさ、日常に潜む予期せぬ出来事、そしてそれを乗り越えようとする小さな人間の姿が、詩情豊かに、そして現実的に描き出されている。特別な出来事ではないかもしれないが、子供にとっては世界そのものが試練となる瞬間がある。本作は、そうした普遍的な「現実」を、一つのシンプルなシチュエーションの中に凝縮して見せることに成功している。白黒映像の持つ独特の質感と相まって、観る者の心に静かに、しかし深く響く作品である。

アッバス・キアロスタミの最初の作品でありながら、既にその後の非凡な才能と独自の映画言語の片鱗を見せており、イラン映画史においても、そしてキアロスタミの作家性を理解する上でも、見過ごすことのできない重要な短編映画と言えるだろう。

もう一度検索