ヒンデミット事件

ヒンデミット事件（Der Fall Hindemith）

1934年、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党（ナチス）による一党独裁体制が確立されつつあったドイツにおいて、音楽界を揺るがした政治的な事件です。この事件は、当時の新進気鋭の作曲家であったパウル・ヒンデミットがナチス体制によって排斥されそうになったことに対し、ドイツ楽壇の頂点に立つ指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが真っ向から異議を唱え、政府と対立した一連の出来事を指します。また、フルトヴェングラーが自身の主張を展開するために新聞に発表した論評のタイトルとしても知られています。

事件の背景と経過

当時、ナチスは社会全体を党の思想のもとに統一しようとする「強制的同一化政策（Gleichschaltung）」を強力に推し進めていました。文化・芸術分野もその例外ではなく、いわゆる「退廃芸術」と見なされた表現や、体制にとって好ましくないと判断された人物は厳しく弾圧されていました。

そのような状況下、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団およびベルリン国立歌劇場の音楽監督を務めていたヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、パウル・ヒンデミットの新作オペラ『画家マティス』の上演準備を進めていました。このオペラは、ルネサンス期の画家マティアス・グリューネヴァルトを題材にしたもので、その音楽素材を用いた交響曲版が、1934年3月12日にベルリンでフルトヴェングラー指揮により初演され、大きな成功を収めていました。多くのベルリン・フィル団員も、翌シーズンにこの交響曲を再演することに賛意を示していました。

しかし、ヒンデミット自身はナチスにとって好ましくない人物と見なされていました。彼は帝国音楽院の顧問やシャルロッテンブルク音楽大学の教授という地位にありましたが、ユダヤ人音楽家との協演や録音を行うなど、当時の基準からすると「非アーリア的」あるいは「国際的」と見なされかねない活動もしていました。さらに、彼のオペラ『今日のニュース』に含まれる演出が、アドルフ・ヒトラーの不興を買っていたとも言われています。こうした理由から、ナチスはヒンデミットを音楽界から排除する方針を固め、『画家マティス』のベルリン国立歌劇場での初演に対し、上演禁止を通達しました。

フルトヴェングラーの抵抗

この決定に対し、フルトヴェングラーは強く反発しました。彼はヒンデミットの芸術的価値を高く評価しており、体制による不当な介入であると考えました。フルトヴェングラーはヒンデミットを擁護するため、自らの辞任も辞さないという強い姿勢を示しました。

さらに、1934年11月25日、彼は当時の有力紙「ドイツ一般新聞」に「ヒンデミット事件」と題する長文の論評を寄稿しました。この論評の中で、フルトヴェングラーはヒンデミットに対する排斥の動きを「いわれのない難癖」であると断じ、ヒンデミットこそが現代ドイツ音楽にとって不可欠な存在であると力説しました。そして、いかなる理由があろうとも、このような重要な音楽家を安易に切り捨てることは許されない、と政府の方針を強く批判したのです。

事件の拡大と影響

フルトヴェングラーのこの論評は、ドイツ国内はもちろん、国際的にも大きなセンセーションを巻き起こしました。ベルリンのフィルハーモニーホールや国立歌劇場では、フルトヴェングラーの姿勢を支持する聴衆や市民によるデモンストレーションが発生するなど、事件は単なる音楽界の枠を超えた政治問題へと発展しました。

事態を重く見たナチス政府の国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、この動きを抑え込むための断固たる措置を取りました。フルトヴェングラーは、以前から彼自身が辞意を示していた帝国枢密顧問官の職だけでなく、ベルリン・フィルおよびベルリン国立歌劇場の音楽監督という主要なポストからも解任されました。また、ナチス寄りの新聞は一斉にフルトヴェングラーとヒンデミットを批判し、集会ではヒンデミットを名指しせずとも「無調の騒音製造者」と攻撃する講演が行われるなど、体制からの圧力が強まりました。

ヒンデミット自身もドイツ国内での活動が困難になり、帝国音楽院顧問を辞任し、大学教授職を休職した上でトルコへと渡航しました。この混乱を受け、ベルリン国立歌劇場の第一楽長であった指揮者エーリヒ・クライバーもドイツを離れ、亡命を選びました。

和解とその後

フルトヴェングラーの辞任は、ドイツ楽壇、特にベルリン・フィルの演奏水準低下を招き、また世界的な指揮者を失ったことによるドイツの対外的なイメージダウンをナチス政府は懸念するようになりました。これらの要因が影響し、ナチス側はフルトヴェングラーへの歩み寄りを見せ、事件から数ヶ月後の1935年3月、両者は形式的に「和解」に至りました。これにより、フルトヴェングラーはベルリン・フィルの指揮台に復帰することが認められました。

しかし、この和解がフルトヴェングラーのナチス体制への完全な屈服を意味するものではありませんでした（ただし、国際社会からはそのように見なされることもありました）。彼はその後も、ナチスの文化政策に非協力的な姿勢を示すことがあり、ユダヤ人音楽家の亡命を支援するなど、個人的な抵抗を続けました。このため、第二次世界大戦末期には、個人的な恨みを抱いていた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー率いるゲシュタポから命を狙われる事態となり、最終的にはスイスへの亡命を余儀なくされました。

ヒンデミット事件は、ナチス体制下における芸術家と国家権力の深刻な対立を示す一例であり、特にフルトヴェングラーという巨匠が芸術的信念を貫こうとして体制と衝突した歴史的な出来事として記憶されています。

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