フランソワ＝アンドレ・ダニカン・フィリドール

フランソワ＝アンドレ・ダニカン・フィリドール（1726年9月7日 - 1795年8月31日）は、18世紀フランスが生んだ稀有な人物です。彼は、音楽家の名門ダニカン一族に生まれ、作曲家としてオペラ分野で成功を収めた一方で、同時代においては世界でも指折りのチェスプレイヤーとしても知られていました。

生前は単にアンドレ・ダニカン・フィリドールと呼ばれ知られていましたが、後年、同名の父（アンドレ・ダニカン・フィリドール）のフランス音楽史における功績が再評価されたため、両者を明確に区別するために「フランソワ＝アンドレ」という呼称が定着しました。本稿では、便宜上「フィリドール」と記します。

フィリドールは、父アンドレが72歳で再婚した際の、19歳だった妻との間に生まれました。出生時、父はすでに79歳と高齢であったため、彼はまだ幼い頃に父を亡くしています。このため、父と同名であるにもかかわらず、生前は特に区別の必要がなかったのかもしれません。

音楽家としての歩み

フィリドールの音楽家としてのキャリアは幼少期に始まります。1732年、わずか6歳でルイ15世の宮廷に出仕し、宮廷礼拝堂の聖歌隊員となりました。11歳で初めて作曲を手がけています。

ルイ15世は宮廷聖歌隊の演奏を日常的に好んで聴いたという逸話があり、これに関連し、国王が訪れるまでの待機時間中、聖歌隊員たちが時間潰しにチェスを楽しんでいたという話も伝わっています。これがフィリドールのチェスとの出会いのきっかけだった可能性も指摘されています。

1750年から1770年にかけて、フィリドールはフランスを代表するオペラ作曲家として活躍し、その間にヴォードヴィルやオペラを合わせて24作品を生み出しました。しかし彼は、アンドレ＝エルネスト＝モデスト・グレトリといった同時代の作曲家と比較し、自身の力量に限界を感じ悩んだ末、音楽活動からチェス競技へ軸足を移すことを決意しました。

チェスプレイヤーとしての偉業

チェスプレイヤーとしてのフィリドールは、その後の歴史に名を刻むことになります。1740年頃、彼はフランスのチェス界の中心であった「カフェ・ド・レジャンス」に足繁く通い始めました。その頃から1740年代にかけて、彼はすでに故人であったジョアッキーノ・グレコ以降の最強プレイヤーと目されるようになりました。

彼は当時フランス随一の強豪であったレガル（Legall de Kermeur）に師事しました。当初、レガルはフィリドールにルーク落ちのハンデを与えていましたが、わずか3年でフィリドールは師に並ぶ実力をつけ、最終的にはその技量を凌駕するに至りました。

1745年、フィリドールはイギリスを訪れ、シリア出身の著名なプレイヤー、フィリップ・スタンマと対局しました。この際、スタンマが常に先手を取るという条件ながら、フィリドールは8勝1敗1分の圧倒的な成績を収めました。この勝利により、彼は1747年には非公式ながらも世界チャンピオンとして広く認められる存在となりました。

チェス理論への貢献

フィリドールのチェスにおける最大の功績の一つは、1749年に刊行された画期的な著書『フィリドールの解析』（Analyse du Jeu des Échecs）です。この書物は驚異的な成功を収め、1871年までに70版を重ね、英語、ドイツ語、イタリア語など各国語に翻訳されました。

その中で彼は9種類のオープニング（序盤の定跡）を詳細に分析しました。フィリドールが提示したオープニングの多くは、ポーンを効果的に配置することで盤面中央（センター）の支配と防御を盤石にすることを目指しています。彼は、それまで見過ごされがちだったポーンの重要性を初めて体系的に認識した人物の一人であり、「ポーンこそがチェスの魂である」（Les Pions sont l'âme du jeu des Échecs）という有名な格言を残しました。

フィリドールがこれほどポーンの役割を重視した背景には、当時のフランス社会、特に革命前夜の第三身分（平民階級）の台頭という政治状況を重ね合わせた見方があるとも指摘されています。

また、彼はキング以外の駒が限定された特定のエンドゲーム（終盤）における理論も深く研究し、特に片方がルークとビショップ、もう片方がルークのみという状況での詰み手順など、現代でも通用する重要な定跡を確立しました。将棋とは異なり、チェスの終盤は互いの駒数が極端に少なくなり、実力が拮抗する相手のキングを詰みに追い込むのは非常に困難となるため、こうした特殊な局面の研究は実戦での勝敗を左右する重要な要素です。

とりわけ、互いのルークとポーンが盤上に残った局面で、守る側が不利な状況から巧みに引き分けに持ち込むための重要な手順は「フィリドール・ポジション」と呼ばれ、その名がチェス史に刻み込まれています。さらに、特定のオープニング（初手1. e4 e5に続いて黒が2. Nf3 d6と指す手順）は「フィリドール・ディフェンス」と呼ばれ、広く知られていますが、これも彼の名にちなんでいます。

目隠し同時対局の伝説

フィリドールは、その卓越した記憶力と計算能力を駆使し、目隠しチェスという離れ業でも伝説を残しました。1783年5月9日、ロンドンのチェスクラブで、彼は盤面を見ずに同時に3人の相手と対局するという驚異的なパフォーマンスを披露しました。しかも、彼は3人の相手全員に先手（白番）を与え、さらにそのうちの一人にはポーン落ちのハンデまで課したのです。

この前代未聞の偉業は、観戦者たちに後世の人間がこれを信じないのではないかと懸念させるほどで、事実を証明するために宣誓供述書が作成されたほどです。現代のトッププレイヤーにとっては、同程度の複数面指しはさほど珍しいことではありませんが、当時にあってはまさに驚愕すべき能力でした。晩年の1793年には、67歳という高齢ながらロンドンで目隠しチェスの2面同時指しを行い、勝利を収めています。

最晩年

フランス革命が勃発した頃、フィリドールはイングランドに滞在しており、動乱の影響に心を痛めていました。彼の人脈には王権派が多かったため、革命政府の追放者リストに名前が載ってしまったのです。失意のうち、フィリドールは1795年に滞在先のロンドンで客死しました。遺体はピカデリーにある聖ジェームズ教会に葬られました。親族が追放者リストからの名前削除に成功したのは、彼の死のわずか数日前であり、帰国叶わぬままの最期となりました。

フランソワ＝アンドレ・ダニカン・フィリドールは、作曲家としての功績に加え、チェスプレイヤーとして理論家として、チェスの歴史に不朽の足跡を残した人物です。彼の著作と理論は、現代に至るまで多くのプレイヤーに影響を与え続けています。

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