ブラウン・ラチェット

ブラウン・ラチェット：熱力学第二法則とブラウン運動の不思議な関係

リチャード・ファインマンは、自身の物理学講義の中で、熱力学第二法則を説明するために「ブラウン・ラチェット」という思考実験を紹介しました。これは、一見すると熱力学第二法則に反するように見える、巧妙な装置です。ブラウン・ラチェットは、非対称な歯を持つ歯車と、その歯車を一方向にしか回転させない爪、そしてブラウン運動によってランダムに動く羽根車から構成されます。

ファインマンのブラウン・ラチェット：なぜ動かないのか？

羽根車は周囲の気体分子からランダムな衝突を受け、ブラウン運動を起こします。この運動はランダムなため、それ自体では仕事をすることはできません。しかし、この羽根車の回転をラチェット機構に接続すると、一方向への回転運動が生じるように見えます。もし回転軸におもりをつければ、この装置は外部からエネルギー供給なしに仕事をしているように見えます。これは、熱力学第二法則（エントロピー増大則）に反するように思われます。

しかし、実際にはブラウン・ラチェットは機能しません。その理由は、ラチェットの爪と歯車の衝突において、非弾性的な衝突を仮定している点にあります。日常のスケールでは、爪と歯車の衝突エネルギーは熱として周囲に逃げてしまうと考えるのが自然です。しかし、より精密に議論すると、爪は歯車に衝突したエネルギーをそのまま跳ね返され、歯車を回転させることができません。爪の振動を止めるには、エネルギーを吸収する機構、つまり制動機構が必要となります。この制動機構は周囲の気体となり、周囲の気体温度と羽根車の温度が等しければ、この機構は機能せず、ブラウン・ラチェットは動きません。

細胞内でのブラウン・ラチェット：イオンポンプのモデル

興味深いことに、ファインマンのブラウン・ラチェットと類似した仕組みが、細胞内に見られるイオンポンプのモデルとして提案されています。イオンポンプは、イオン濃度勾配に逆らってイオンを輸送するタンパク質です。この輸送には、ATPなどの化学エネルギーが利用されます。

イオンポンプの動作は、ブラウン運動と非対称なポテンシャル（ラチェット・ポテンシャル）によって説明できます。イオンはブラウン運動によってランダムに移動しますが、ラチェット・ポテンシャルの存在により、ある方向への移動確率が高くなります。ポテンシャルは、イオンポンプのタンパク質構造変化によって作られ、消滅します。この非対称的なポテンシャルとブラウン運動の組み合わせによって、イオンポンプはイオンを濃度勾配に逆らって輸送できるのです。この場合の粒子の運動は、日常的なラチェット機構とは逆向きになります。

アクチン・ミオシン系、チューブリン・ダイニン系、チューブリン・キネシン系などの細胞内分子モーターも、同様のモデルで説明できる可能性があります。これらの分子モーターは、ブラウン運動と非対称なポテンシャルを利用して、細胞内を移動します。これらの仕組みでは、熱力学第二法則が破られることはありません。ポテンシャルを維持するためにはエネルギーが必要であり、また、ATPなどの化学エネルギーは有限であるためです。

まとめ

ブラウン・ラチェットは、一見すると熱力学第二法則に反するように見える思考実験ですが、精密な分析によってその動作原理が解明され、熱力学第二法則と矛盾しないことが示されています。さらに、このモデルは細胞内におけるイオン輸送や分子モーターの仕組みを理解する上で重要な役割を果たしています。ブラウン運動というランダムな運動が、巧妙な仕組みによって制御され、細胞内での重要な機能に貢献しているのです。

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