ホルヘ・ボレット

ホルヘ・ボレット（Jorge Bolet, 1914年11月15日 - 1990年10月16日）は、20世紀後半を代表するキューバ出身のピアニストであり、一時指揮者としても活動した人物です。彼の氏名について、日本ではかつてフランス語読みの「ボレ」と表記されることもありましたが、母国キューバの公用語であるスペイン語の発音に基づき、今日では「ボレット」に統一されています。

来歴

ボレットの音楽人生は、故郷キューバの首都ハバナで始まりました。その後、アメリカ合衆国フィラデルフィアにある名門カーティス音楽学校で研鑽を積み、レオポルド・ゴドフスキーやデヴィッド・サパートンといった優れた指導者から学びました。特に、フランツ・リストの直弟子であり、ロシアの作曲家セルゲイ・ラフマニノフの従兄でもあるアレクサンドル・ジロティに師事したことは、彼の演奏スタイルを確立する上で極めて重要でした。ボレットはジロティの下で深い音楽性と高度なテクニックを磨きました。

学生時代には、卒業演奏でフレデリック・ショパンのピアノ・ソナタ第3番という大曲や、恩師ゴドフスキーがヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ『こうもり』の旋律に基づいて編曲した超絶技巧曲を披露し、その実力を示しています。また、彼がフェルッチョ・ブゾーニによる編曲版の『ラ・カンパネッラ』を録音した音源は、学生時代の貴重な記録として残されています。

卒業後、ボレットは1939年から1942年まで母校カーティス音楽学校で教鞭をとるなど、教育者としての道を歩み始めました。しかし、1942年には米軍に入隊。第二次世界大戦後には連合国軍総司令部（GHQ）の一員として日本に派遣されるという異色の経歴も持ちます。この日本滞在中に、彼はギルバート＆サリヴァン作のオペレッタ『ミカド』の日本初演を指揮するという、ピアニストとは異なる立場で音楽活動を行っています。

ピアニストとして国際的な名声を得るまでには、長い時間を要しました。彼の才能は早くから認められていたものの、ある批評家が「長年の無視に傷ついていた」と評したように、広く世に知られるようになったのはようやく1970年代初頭になってからです。特に、カーネギーホールでの演奏が大きな成功を収め、その評価を確固たるものとしました。彼の驚異的な技巧と深みのある表現は、聴衆を熱狂させました。その後の活躍は目覚ましく、近年のフィリップス・レコードによる「20世紀の偉大なるピアニストたち」シリーズのCDでも、彼の素晴らしい演奏を聴くことができます。

ボレットは演奏活動と並行して教育活動も続けました。ルドルフ・ゼルキンの後任としてカーティス音楽学校ピアノ科の主任教授を務めた時期もありましたが、後にその職を辞し、再び演奏活動に専念する道を選びました。興味深いことに、ボレットは師であるモーリツ・ローゼンタールとアレクサンドル・ジロティの両名が、リストの直弟子として特に長命だったことから、フランツ・リストの孫弟子にあたるという、音楽史上の偉大な系譜に連なる人物でもありました。

ピアニストとしての特徴と録音

ホルヘ・ボレットは、特にロマン派音楽の壮大かつ技巧的な作品の解釈者として高く評価されています。フランツ・リストやフレデリック・ショパンといった作曲家の作品における彼の演奏は、その代表例と言えるでしょう。彼はまた、自ら編曲（トランスクリプション）を行ったり、一般にはあまり演奏されない珍しいレパートリーを取り上げたりすることにも意欲的でした。恩師レオポルド・ゴドフスキーの作品、中でも演奏至難とされる多くの楽曲を、作曲者本人から直接学び、自身の十八番としていました。

彼の演奏スタイルは一貫していたわけではなく、変遷が見られました。広く名を知られるようになった後年の演奏は、豊かなカンタービレ（歌うような表現）を重視し、抒情性と構築美を兼ね備えたものでしたが、キャリアの比較的初期、特に「全盛期」と呼ばれる頃には、文字通り人間離れした強烈なタッチや圧倒的な音量で聴衆を驚かせるような、よりダイナミックでヴィルトゥオーゾ然とした側面も持ち合わせていました。この時期の録音は、かつて「エベレスト」と呼ばれたレーベルからリリースされたロマン派の協奏曲などで確認できます。

ボレットの録音活動は、1978年にデッカ・レコードと契約を結んでから特に活発になり、主要なレパートリーの多くが商業録音として残されました。これらのスタジオ録音に加え、メリーランド州の国際ピアノ・アーカイヴや英国放送協会（BBC）には、彼の白熱したライブ演奏の貴重な音源が数多く保管されています。

彼の録音の中でも特筆すべきは、セルゲイ・プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番の世界初録音を行ったことです。この極めて難易度の高い作品は、現在でこそ多くのピアニストによって録音されていますが、世界で初めて録音したのはボレットであり、後に決定盤として高い評価を得たマルコム・フレイジャーの録音よりも数年先行していました。このことからも、彼の先進性と挑戦的な姿勢がうかがえます。

教育者として

ボレットは優れた演奏家であると同時に、熱心な教育者でもありました。彼が開催した国際ピアノマスタークラスは高く評価され、アメリカのテレビ局によってその全編が放送されるほど注目されました。このマスタークラスを通じて、多くの若い才能が彼の指導を受けました。中でも、1986年のチャイコフスキー国際コンクールピアノ部門で優勝を果たしたバリー・ダグラスは、ボレットのマスタークラスで学んだ経験を持っています。

死去

ホルヘ・ボレットは、1990年10月16日に亡くなりました。長らく死因は自宅での心臓発作とされていましたが、その後に詳細が明らかになり、実際にはエイズ（AIDS）による合併症が原因であったことが判明しています。75歳でした。

ホルヘ・ボレットは、長年にわたる不遇の時期を乗り越え、晩年にその真価を広く認められた稀有なピアニストです。彼の残した超絶技巧と深い音楽性を兼ね備えた演奏は、多くの録音を通じて今なお聴き継がれています。

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