メルセデス・ベンツ・T80

メルセデス・ベンツT80：第二次世界大戦によって幻となった世界最速への挑戦

メルセデス・ベンツT80は、第二次世界大戦前のドイツにおいて、世界最高速度記録の更新を目指して開発された、6輪のレーシングカーです。その開発背景には、第一次世界大戦以前から世界最高速度記録においてイギリス勢が台頭し、ドイツがその地位を奪われていたという事情がありました。アドルフ・ヒトラー政権下のドイツは、国家威信をかけて、ドイツの技術力を世界に示すべく、このプロジェクトに多大な資源を投じました。

設計は、後にポルシェ社の創設者として名高いフェルディナント・ポルシェが担当しました。ポルシェ自身は、国家的な威信よりも技術的な限界への挑戦に魅力を感じていたとされています。ポルシェは既に設計を完了させており、1937年7月23日、ダイムラー・ベンツとの最初の協議を経て、顧問契約を締結しました。

ダイムラー・ベンツは、航空機用エンジンをベースに、排気量44,000cc、出力2,500馬力以上（瞬間的には3,030馬力）という驚異的なパワーを誇るV型12気筒エンジンDB603を搭載しました。このエンジンはミッドシップに配置され、後輪4輪で駆動する6輪駆動を採用していました。高速走行時の浮き上がりを防ぐため、車体側面には翼状の水平フィンが取り付けられていました。車重は約2,800kg、全長は約8.5mにも及ぶ巨大なマシンでした。ブレーキシステムは6輪全てに作用する油圧式フットブレーキ、タイヤはコンチネンタル社が開発した最高速度700km/hに耐える特殊タイヤが採用されています。トランスミッションは存在せず、クラッチ操作は直接的な押したり引いたりすることで行われました。ボディパネルは、軽量化のため0.3～1.0mm厚のジュラルミン製で、着脱可能な構造になっていました。

当初、ポルシェは最高速度記録に挑戦するのに最適な場所として、ボンネビル・ソルトフラッツを候補に挙げていました。しかし、記録テストの責任者であったアドルフ・ヒューンラインは、ドイツの記録挑戦車はドイツ国内のコースで走らなければならないと主張しました。ポルシェはアウトバーンですら狭すぎる旨を説明しましたが、ヒューンラインはすぐに専用のコースを建設すると回答。その結果、デッサウにセンターラインのない全長10,000m、幅18mのコンクリート製直線コースが建設されることとなりました。

しかし、ポルシェの見積もりによれば、600km/hを達成するには5,790mの助走距離と、2,250mの減速距離、そして速度測定距離が必要で、最低でも9,040m（1kmのフライングスタートの場合）または9,650m（1マイルのフライングスタートの場合）のコース長が必要でした。ポルシェはさらに、条件が良ければ640～650km/h、最高の状態ならば計算上700km/hも可能と予測していました。ボンネビル・ソルトフラッツの方が広大で安全であり、標高が高いため空気力学的にも有利であると説明しましたが、ドイツ政府やナチス党はこれを聞き入れず、1940年のデッサウ・記録週間でのテスト走行を強行しようとしたのです。

しかし、結局テスト走行は行われることなく、第二次世界大戦の激化により開発は中止されました。T80はダイムラー・ベンツに残され、現在ではメルセデス・ベンツ博物館の貴重な展示品として、その雄姿を後世に伝えています。近年、イギリスのチャンネル4で放送されたドキュメンタリー番組では、ソフトウェアを用いたシミュレーションによって、T80は時速604km/h以上を達成可能であったと結論付けられています。一方で、ダウンフォースの偏りにより、高速走行時には前輪が浮き上がる可能性も指摘されています。

メルセデス・ベンツT80は、ナチス・ドイツの技術力と、その時代背景を象徴する存在として、今もなお人々の関心を集め続けています。その壮大な計画と、未完成に終わった運命は、歴史に残る数々の伝説を生み出しました。

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