ラインハルト・ゼルテン

ラインハルト・ゼルテン（Reinhard Selten、1930年 10月5日 - 2016年 8月23日）は、ドイツが生んだ傑出した経済学者であり数学者です。特にゲーム理論と実験経済学の分野で多大な功績を残し、1994年にはノーベル経済学賞を受賞しました。現実世界の経済行動をより深く理解するための実験的手法を開拓したことから、「実験経済学の父」としても広く尊敬されています。

困難な幼少期と学問への目覚め

ゼルテンは、現在のポーランド領であるヴロツワフ（当時のドイツ領ブレスラウ）で生を受けました。父親はユダヤ系、母親はプロテスタントという背景を持つ家庭でした。しかし、その幼少期は平穏なものではありませんでした。1942年に父親を病で失った後、14歳になった1944年には、第二次世界大戦中のナチス政権による迫害のため、通っていたギムナジウム（中等教育機関）からの退学を余儀なくされます。故郷ブレスラウを離れたゼルテンは、母親や兄弟、妹と共に難民としてザクセン、オーストリア、ヘッセンといったドイツ各地を転々としました。この間、一家を支えるため、農場などで労働に従事するという過酷な経験をしました。

戦後の1947年から1951年にかけて、ヘッセン州のメルズンゲンに落ち着き、再びギムナジウムに通う機会を得ます。自宅から学校まで往復3時間半という道のりを毎日通学する中で、彼は幾何学や代数学といった数学の問題に強く惹かれるようになりました。この時期に培われた数学への深い関心が、後の研究者としての道を決定づけることになります。

研究者キャリアの形成

1951年、ゼルテンはフランクフルト大学に進学し、数学を専攻します。そして、1957年にはエーヴァルト・ブルガー教授の指導の下で修士号を取得しました。修士課程を修了後、ハインツ・ザウアーマン教授の指導を受けて、経済研究所にて実験経済学の研究に着手します。これは、理論だけでは捉えきれない人間の意思決定プロセスを、実際の実験を通じて解明しようという画期的な試みでした。

1959年には、エリーザベト・ラングライナーと結婚します。同年、指導教授のザウアーマンと共著で、経済学における競争形態の一つである寡占市場の行動を実験で分析した論文『寡占実験』を発表。実験経済学の初期の重要な成果となります。1961年にはフランクフルト大学より数学のPh.D.を取得し、研究者としての確固たる地位を築き始めました。

その後も精力的に研究活動を続け、1962年にはザウアーマンとの共著でAspiration Adaptation Theory（目標水準適応理論）に関する論文を、1965年には需要の慣性がある寡占モデルをゲーム理論で分析した論文を発表するなど、理論と実験の両面から経済行動の解明に取り組みました。

大学教授としての活動とゲーム理論の発展

1965年、イスラエルで開催された「ゲーム理論のワークショップ」に参加したことは、彼のキャリアにおける重要な転機となりました。この場で、後に共同でノーベル賞を受賞するジョン・ハーサニとの協力を開始し、ゲーム理論における「平衡選択理論」の発展に大きく貢献しました。

大学教授としても、様々な教育機関で教鞭をとりました。1967年から1968年にかけては、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校ビジネススクールで客員教授を務めました。帰国後、1969年から1972年までベルリン自由大学の教授を務めた後、1972年からは12年間にわたりビーレフェルト大学で教授を務めました。そして1984年、ボン大学の経済学教授に就任します。これは、数学の博士号を持つ人物としては初の経済学教授という異例の経歴でした。その後、1987年から1988年には再びビーレフェルト大学で客員教授を務めるなど、国内外の様々な大学で活躍しました。1991年には、ゲーム理論における自身の研究成果をまとめた主要な著作の一つである『ゲーム平衡モデル』を出版しています。

業績と「実験経済学の父」

ゼルテンの主要な業績は、ゲーム理論におけるナッシュ均衡の概念を発展させたことにあります。複数のナッシュ均衡が存在する場合に、どの均衡が実際に起こりうるかを予測するための基準（例えば、部分ゲーム完全均衡など）を提唱し、ゲーム理論の実用性を高めました。また、従来の経済学が前提としてきた人間の完全な合理性ではなく、より現実的な「限定合理性」のもとでの意思決定プロセスの研究に深く取り組みました。実験経済学という分野を確立し、その発展を主導した功績は特に大きく、現代の経済学研究に欠かせない実証的なアプローチの基礎を築いたと言えます。

彼の研究姿勢には、妥協を許さない一面がありました。例えば、論文の表現や内容に自身の意図しない修正を加えられることを嫌い、あえて知名度の低い雑誌に論文を発表することがあったという逸話は、彼の学問に対する純粋な情熱と信念を物語っています。

ノーベル経済学賞受賞と晩年

1994年、ラインハルト・ゼルテンは、ゲーム理論のフロンティアを切り開いた功績が認められ、ジョン・ナッシュ、ジョン・ハーサニと共にノーベル経済学賞を受賞しました。これは、ゲーム理論が経済学における強力な分析ツールとして広く認知される契機ともなりました。

ゼルテンは、学術活動以外にも多様な関心を持っていました。1959年からは国際語であるエスペラントの熱心な支持者（エスペランティスト）となり、後に夫となるエリーザベトとの出会いもエスペラント運動が縁であったと言われています。2009年には、エスペラントを欧州連合（EU）の公用語の一つとすることを目指す政党「欧州・民主・エスペラント」のドイツからの第一候補者として欧州議会議員選挙に出馬するなど、晩年まで活発な社会活動を行いました。

ボン大学の名誉教授として後進の指導にあたる傍ら、国内外の複数の大学から名誉博士号を贈られるなど、その学術的貢献は高く評価されました。2016年 8月23日、85年の生涯を閉じましたが、彼がゲーム理論と実験経済学に残した足跡は、現代経済学研究の礎として、今なお多くの研究者に影響を与え続けています。

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