ラモン・ヴィナイ

ラモン・ヴィナイ：声域を超えたオペラ歌手

ラモン・マリオ・フランシスコ・ヴィナイ・セプルベダは、1912年 8月31日に南米チリ中南部の都市チジャンで生を受けました。フランス系移民の子であった彼は、幼くして母親を亡くすという悲しみを経験し、1920年には父親に伴われて遠い祖国の地、フランスへと渡り、ディーニュ＝レ＝バンで少年期を過ごします。しかし、ヴィナイの探求心は止まらず、1928年には単身でメキシコに新天地を求めました。このメキシコで、彼は自身の隠された歌唱の才能を見出されることになります。

当初、ヴィナイはバリトン歌手としての訓練を積みました。そして、1931年9月16日、メキシコシティのベラス・アルテス劇場において、ガエターノ・ドニゼッティ作曲のオペラ『ラ・ファヴォリータ』のドン・アルフォンソ役で公式な舞台デビューを飾ります。メキシコを拠点に活動を続けた彼は、ジュゼッペ・ヴェルディの『リゴレット』や『アイーダ』におけるアモナズロ役、ルッジェーロ・レオンカヴァッロの『道化師』のトニオ役など、イタリアオペラの主要なバリトン役を次々とレパートリーに加え、その実力を確立していきました。

ヴィナイのキャリアにおける決定的な転機は、1944年に訪れました。彼はバリトンからテノールの声域への挑戦を決意したのです。そして同年6月19日、ヴェルディの最も難易度の高いテノール役とされる『オテロ』のタイトルロールで、見事テノールとしての新たな一歩を踏み出しました。バリトン出身ならではの重厚な声質に加え、フランスで育った経験から培われた優れたフランス語の発音を活かし、ジョルジュ・ビゼーの『カルメン』におけるドン・ホセ役や、カミーユ・サン＝サーンスの『サムソンとデリラ』のサムソン役といった、フランスオペラのドラマティックなテノール役でも才能を発揮しました。

1946年からは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に定期的に出演するようになり、翌1947年にはイタリア各地のオペラハウスにも招かれました。国際的な舞台で彼は、キャリア初期の『オテロ』、ドン・ホセ、サムソン、そして『道化師』のカニオといった、特に声質に合った重量級のテノール役を中心に歌い続け、同時代のテノール・ドラマティコとして第一人者の地位を確立しました。派手な歌い崩しを避け、楽曲の構造を重視する彼の堅実な歌唱スタイルは、多くの名指揮者からも高く評価されました。とりわけ『オテロ』においては、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮によるNBC交響楽団との放送録音や、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮によるザルツブルク音楽祭でのライブ録音といった、現在も歴史的名盤として語り継がれる録音を残しています。

1950年代に入ると、ヴィナイはレパートリーの幅をさらに広げました。これまでのイタリア・フランスオペラに加え、リヒャルト・ワーグナーの楽劇にも積極的に取り組み始めたのです。『ニーベルングの指環』のジークムント、『パルジファル』のタイトルロール、『トリスタンとイゾルデ』のトリスタンといった、いわゆるヘルデンテノール（英雄的テノール）の難役にも挑み、その力強い歌唱はバイロイト音楽祭でのライブ録音などで聴くことができます。

約10年間にわたり、テノールの重量級の役柄を歌い続けたヴィナイでしたが、1950年代の終わり頃から、テノールの高音域の発声に徐々に困難を感じるようになります。これに伴い、彼は自身のキャリアをスタートさせたバリトンの声域へと舞い戻る決断を下しました。バリトンに復帰してからも、彼は質の高い歌唱を披露しました。ヴェルディ『オテロ』の悪役ヤーゴ、ジャコモ・プッチーニ『トスカ』の悪党スカルピア男爵、ワーグナー『ローエングリン』の敵役テルラムント伯爵など、数々の名録音を残しています。特に興味深いのは、1962年にダラスで行われた『オテロ』公演で、かつてオテロ役を争ったライバルであったマリオ・デル＝モナコがオテロを歌う中、ヴィナイがヤーゴ役を演じた記録があることです。

バリトンへの回帰後、彼の声質はさらに重みを増していきました。1960年代半ばには、ロッシーニの喜劇『セビリアの理髪師』のドン・バルトロや、ヴェルディ『ドン・カルロ』の異端審問官といったバスの役柄まで手掛けるようになります。これは、男声オペラ歌手としてほぼ全ての声域を網羅するという、極めて稀有なキャリアパスを辿ったことを意味します。しかしながら、バス歌手としては、テノールやバリトン時代のような大きな成功を収めるには至りませんでした。

ヴィナイは、1969年9月に故国チリの首都サンティアゴにあるムニシパル劇場で、一連の引退公演を行いました。この引退公演の中でも、9月22日の『オテロ』は、彼の歌手人生を象徴する忘れられない一夜となりました。この公演でヴィナイは、第1幕から第3幕まではバリトンの悪役ヤーゴとして出演し、最終の第4幕では、かつて彼を世界の頂点に押し上げたテノールの主役オテロを歌ったのです。これは、ヴィナイのユニークな声域遍歴と、生涯を通じて向き合ったこの傑作への深い繋がりを示す感動的なパフォーマンスでした。

偉大なオペラ歌手、ラモン・ヴィナイは、1996年 1月4日、メキシコのプエブラにて、85年の生涯を閉じました。テノールとバリトンの両方で主役を張り、さらにはバス役までこなした彼のキャリアは、オペラ史においても類を見ないものであり、特に『オテロ』の圧倒的な解釈と共に、今なお多くの音楽ファンに語り継がれています。

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