ヴィーナスとアドニス (ティツィアーノ、プラド美術館)

ティツィアーノの『ヴィーナスとアドニス』：愛と悲劇の物語

イタリア・ルネサンス期の巨匠、ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1554年に制作した油彩画『ヴィーナスとアドニス』は、ギリシア神話の愛と美の女神アプロディテ（ローマ神話のヴィーナス）と、その恋人アドニスの悲恋をテーマにした作品です。この作品は、ティツィアーノが同主題で制作した数多くのバージョンの中でも、最も有名なものの一つであり、スペイン国王フェリペ2世のために制作された神話画連作《ポエジア》の一部を構成します。現在、マドリードのプラド美術館に所蔵されています。

神話に基づく物語

この絵画の主題は、オウィディウスの『変身物語』に基づいています。アドニスは、キプロス王キニュラスとその娘ミュラの近親相姦によって生まれたとされています。ミュラは、女神アプロディテを崇拝しなかったために、この禁断の愛に陥ったとも言われています。ミュラは正体を隠して父親と関係を持ち、身ごもりますが、正体が露見すると逃亡。神に姿を変えてくれるよう願った結果、没薬の木に姿を変えました。その後、没薬の木から生まれたのが、美しく成長したアドニスです。

女神アプロディテはアドニスを深く愛し、彼を常に傍に置いていましたが、ある日、アドニスは狩りに出かけ、そこでイノシシに襲われて命を落とします。この時、アドニスの血からアネモネの花が咲いたと伝えられています。

制作の経緯

ティツィアーノは、1520年代の終わりに最初の『ヴィーナスとアドニス』を制作しましたが、その作品は現存していません。しかし、模写によってその存在が知られています。その後、約20年の歳月を経て、ティツィアーノは再び同主題に挑み、複数のバージョンを制作しました。そのうちの一つがプラド美術館所蔵の作品へと繋がっています。

この作品は、神話画連作《ポエジア》の一部として制作されました。《ポエジア》は、1553年から1562年にかけて制作され、『ダナエ』、『ディアナとアクタイオン』、『ディアナとカリスト』、『ペルセウスとアンドロメダ』、『エウロペの略奪』などが含まれます。この連作は、ティツィアーノとフェリペ2世の間で、1551年頃に合意されたと考えられています。

『ヴィーナスとアドニス』は、《ポエジア》連作の最初の作品として『ダナエ』と共に制作され、1553年と1554年後半にそれぞれ発送されました。

作品の描写

絵画の中で、ヴィーナスは若い恋人アドニスの死を予感し、狩りに出かけようとするアドニスを抱きしめ、必死に引き止めようとしています。しかし、アドニスはヴィーナスの制止を振り払い、狩猟槍と猟犬のリードを手に、立ち去ろうとしています。画面左の木の下では、キューピッドが眠っており、その弓と矢筒が木の枝に掛けられています。また、画面右上には、異時同図法的に物語の後半に登場するヴィーナス、あるいは夜明けを告げる太陽神アポロンの姿が描かれています。

ヴィーナスのポーズは、アドニスを引き止めようとする必死さと、官能的な抱擁とが融合しています。ティツィアーノは、鑑賞者に女神の背中と臀部を見せることで、彫刻のように様々な視点を表現できることを示唆しています。

文献的源泉

ティツィアーノが描いた場面は、オウィディウスの記述とは異なるため、1584年にラファエロ・ボルギーニによって批判されました。現代の研究者は、ティツィアーノがインスピレーションを得た可能性のある文学資料を探しています。

スペインの詩人ディエゴ・ウルタード・デ・メンドーサの『アドニス、ヒッポメネス、アタランテの寓話』や、ロドヴィーコ・ドルチェの『アドニスの寓話』などが候補として挙げられています。しかし、ティツィアーノの最初の制作が1520年代に遡ることから、むしろこれらの作家がティツィアーノからインスピレーションを受けた可能性も指摘されています。

絵画技術

赤外線リフレクトグラフィーによる調査では、この作品がモスクワの個人コレクションのバージョンを基にしていることが明らかになっています。ティツィアーノは、この作品を参考にしつつ、いくつかの変更や調整を加えて、プラド美術館のバージョンを完成させました。

X線撮影では、アドニスの狩猟槍の位置が変更されたことや、ヴィーナスの横顔、アドニスの胴体にペンティメント（描き直し）が確認できます。ティツィアーノは非常に薄い絵具で描いているため、制作過程で放棄された初期の準備段階が、空の部分などから透けて見えることがあります。

来歴

この絵画は、他の《ポエジア》とともにマドリードのアルカサルに置かれ、17世紀に展示されていました。その後、18世紀初頭にパルド王宮に移され、その後も場所を変えながら保管され、最終的にプラド美術館に収蔵されています。

まとめ

ティツィアーノの『ヴィーナスとアドニス』は、愛と悲劇が交錯する美しい神話画であり、その卓越した絵画技術とドラマチックな構図は、見る者を魅了します。この作品は、ティツィアーノの芸術性の高さを物語る傑作の一つとして、今日まで多くの人々に愛され続けています。

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