不信の停止

不信の停止：創作世界への没入を可能にする心の状態

私たちが映画や小説、演劇といったフィクション作品を鑑賞し、その世界に没頭できるのは、ある種の心の状態のおかげです。それが「不信の停止（willing suspension of disbelief）」です。これは、現実にはありえない設定や出来事であっても、作品を楽しむために一時的に疑いを差し控え、創作された世界を受け入れる状態を指します。

この概念は、一般的にはサミュエル・テイラー・コールリッジが提唱したとされています。ただし、コールリッジが最初にこの考え方を着想したかどうかは明確ではありません。コールリッジは詩論の中でこの概念を用いていましたが、現在では小説や演劇など、あらゆるフィクション作品に広く適用されています。

「不信の停止」は、単に現実逃避や現実無視とは異なります。鑑賞者は、作品が作り物であることを理解した上で、一時的にその事実を忘れ、創作世界に入り込み、登場人物の感情に共感したり、物語の展開に一喜一憂したりします。この心の状態が、フィクション作品が私たちに深い感動や興奮を与えてくれる大きな要因となっています。

「不信の停止」は、様々な言葉で表現されます。「不信の宙づり」「不信の休止」「不信の念の停止」「不信の自発的停止」「不信の自発的棚上げ」「懐疑の自主的中断」「不信の中断」など、いずれも同様の意味合いを持ちます。

コールリッジ自身は、観客が劇的な効果を楽しむために、非現実的な要素を一時的に受け入れるという文脈でこの概念を用いたと考えられます。小説家のジョン・ル・カレは、この概念について、現実の社会が荒唐無稽でありながら、私たちはそれを疑わずに生きていることに例えています。つまり、日々の生活においても、私たちは時に「不信の停止」のような状態にあると言えるでしょう。

Marie-Laure Ryanという研究者は、「不信の停止」をごっこ遊びに例えています。子どもたちがごっこ遊びで、現実とは異なる状況を現実であるかのように受け入れるように、私たちはフィクション作品の世界を現実のように受け入れることで、作品を深く理解し、楽しむことができるのです。

コールリッジの議論の核となるのは、超自然的または幻想的な要素を含む作品においても、登場人物に十分な「人間的興味と真実らしさ」を与えることで、読者や観客が「一時的に不信の念を進んで停止させる」ことができるという点です。つまり、どれだけ非現実的な設定であっても、登場人物の行動や感情に共感できれば、私たちはそれを疑うことなく受け入れることができるのです。

「不信の停止」は、フィクション作品を鑑賞する上での重要な心理的メカニズムであり、作品の世界観への没入と深い理解を促す鍵となっています。この概念を理解することで、私たちはより深くフィクション作品を味わうことができるでしょう。

関連概念

第四の壁：登場人物が観客に語りかけたり、観客の存在を認識したりする演出手法。メタフィクション作品においては、しばしば「不信の停止」が意識的に崩される。
メタフィクション：フィクション作品であることを自覚的に示す作品。作品自体がフィクションであることを観客に意識させることで、「不信の停止」を揺さぶり、新たな解釈を生み出す。

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