久野久 (ピアニスト)

久野久（くの ひさ）：日本初のピアニスト、その光と影

久野久（1886年12月24日 - 1925年4月20日）は、明治から大正にかけて活躍した日本のピアニストです。東京音楽学校（現東京藝術大学）が育てた、文字通り「日本初」の国産ピアニストとして知られています。しかし、その才能を開花させた地であるヨーロッパで、38歳という若さで自ら命を絶つという悲劇的な結末を迎えました。

邦楽全盛の時代に現れた異才

明治時代、日本の音楽界は琴や三味線、長唄といった伝統的な邦楽が主流でした。そんな時代に、久野久はピアニストとして頭角を現します。「音楽の都」ウィーンでの演奏を果たしたことで、「日本初のピアニスト」と称えられました。

生い立ちと音楽との出会い

1886年、滋賀県大津市で質屋を営む裕福な家庭に生まれた久野久は、幼少期に足に障害を負います。経済的には恵まれていましたが、家庭環境は複雑で、孤独な少女時代を送りました。叔父の勧めで邦楽を学びますが、その限界を感じていたところ、兄の勧めで15歳で東京音楽学校に入学し、幸田延に師事してピアノを始めます。

当初は成績不振で退学勧告を受けるほどでしたが、彼女は諦めませんでした。猛練習を重ね、ついには幸田延から「久野のピアニストとしての光栄は、嬢の頭上に王冠のごとく輝きし、のみならず、最後の勝利者となること、疑いなし」と新聞で絶賛されるまでになりました。

血染めの鍵盤

1910年には東京音楽学校の助教授に就任。教え子の一人には、後に作家となる宮本百合子がいました。宮本百合子の小説「道標」には、久野久をモデルにした「川辺みさ子」が登場します。1915年の自動車事故による一時的な活動休止を経て、1917年には教授に昇格。翌年にはリサイタルでベートーヴェンのソナタを演奏し、大成功を収めます。

久野久の演奏スタイルは非常に激しいものでした。長時間にわたる練習で指先が割れて血を流しながらも演奏を止めず、鍵盤は血に染まることもありました。激しい動きで髪を振り乱し、簪が飛ぶほどの熱演だったと伝えられています。まさに「血染めの鍵盤」という言葉が、彼女の情熱と努力を象徴しています。

ヨーロッパでの苦悩と突然の死

周囲からの期待を一身に背負い、久野久は文部省の海外研究員としてベルリンへ留学します。その後ウィーンへ移りますが、西洋の生活習慣に馴染めず、周囲との軋轢を生んでしまいます。また、エミール・フォン・ザウアーから基礎からのやり直しを宣告されたことで絶望し、1925年4月20日、滞在先のホテルから投身自殺しました。享年38歳。その際、着物姿で正装し、両足を紐で縛っていたという逸話は、彼女の強い意志と、異文化への葛藤を物語っています。

遺されたもの

久野久は、1922年頃にベートーヴェンの「ピアノソナタ第14番（月光）」を録音しています。これが彼女の唯一の録音となり、死後追悼盤としてリリースされました。その演奏は、現代においてもCDで聴くことができます。

久野久のヨーロッパでの挫折は、当時の日本の音楽界の未熟さを示す例と捉えられがちですが、音楽学者の渡辺裕は、彼女の演奏が当時のヨーロッパの演奏慣習にありがちなテンポの揺れがなく、「楽譜通り」であった点に着目し、むしろその後の主流となる原典主義の演奏法を先取りするものだったという見解を示しています。

一方、友人であったピアニストの妹尾せい子は、自殺の原因を指の故障にあると指摘しています。長年の練習と演奏によって指を痛め、ピアニストとしての生命を奪われたことが、彼女を絶望させたのではないかと語っています。

久野久の墓は、東京都文京区の伝通院にあります。墓標は、同時期に美術学校で学んだ彫刻家・朝倉文夫によって刻まれました。

久野久は、日本初のピアニストとして輝かしい功績を残した一方で、異文化との葛藤、身体的な苦痛、そして周囲からの期待という重圧の中で、その短い生涯を終えました。彼女の人生は、日本の音楽史における黎明期の光と影を象徴していると言えるでしょう。

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