二重相続理論

二重相続理論（DIT）

二重相続理論は、遺伝子-文化共進化とも呼ばれ、人類の進化を生物学的な遺伝と文化的な継承という二つの異なるシステムが相互に作用し合うプロセスとして捉える考え方です。生物学的な特性だけ、あるいは文化的な特性だけが人間のあり方を決定するという見方とは異なり、両者の動的な相互作用によって人類が現在の姿になったと考えます。この理論は1970年代から1980年代にかけて提唱・発展し、進化生物学、心理学、文化人類学など、幅広い学問分野にまたがる学際的な性格を持っています。

理論の核となる主張

二重相続理論（以下、DIT）は、人間の進化が遺伝的進化と文化的進化という二つの経路の相互作用によって生じると主張します。DITは、自然選択による遺伝的、生物学的進化が人間の進化の重要な基盤であることを認めつつ、文化的な特性もまた遺伝的な要因によって影響を受けるとします。同時に、遺伝的な進化が文化を発達させる能力を人間に与え、その文化の状態が淘汰圧となって再び遺伝的な特性に影響を及ぼす、という双方向の関係性を重視します。

DITの主要な主張は以下の三点に集約されます。

1. 文化を獲得・伝達する能力は適応である
文化を学び、次世代に伝える人間の能力は、遺伝的に進化してきた精神的なメカニズムに根ざしています。社会的な学習を通じて文化が積み重ねられる「累積的な文化進化」は、変化の激しい環境において、遺伝的な進化よりも迅速な適応を可能にし、結果として遺伝的な生存や繁殖に有利に働きました。
2. 文化は進化する
社会的な学習プロセスを通じて文化は世代間で伝播し、時間とともに変化します。文化的な形質は遺伝的な形質とは独立して伝達されるため、集団の異なるレベルに影響を及ぼし、多様な人間行動や社会構造を生み出す要因となります。
3. 遺伝子と文化は共進化する
文化的な形質は、遺伝的選択が作用する物理的・社会的な環境を変化させます。たとえば、農業や酪農といった文化が広まることで、デンプンや乳糖を効率的に消化できる遺伝子を持つ人々が有利になり、集団内の遺伝子頻度が変化しました。また、文化を保持し伝達する能力の向上は、脳の認知構造の改善を促し、これがさらに文化の蓄積や伝達様式に影響を与えた可能性もあります。DITは、特定の状況下では、文化進化が遺伝的には不利に見える形質を選択することもあり得ると予測します。現代社会で見られる出生率の低下などが、その例として議論されることがあります。

DITにおける文化の捉え方

DITでは「文化」を、個人の脳内に保持され行動に影響を与えうる情報であり、社会的学習を通じて他者の脳へと伝播するものと定義します。この定義は、文化を集団が共有する思考様式として強調しつつも、個人の内にある動的な属性と見なす点で、文化を「個人が従うべき超個体的な実体」と捉えがちな従来の社会学的な視点とは対照的です。このような個体レベルの視点は、文化の進化プロセスを具体的にモデル化し、集団レベルの現象との関連を明確にする上で有利となります。

遺伝子と文化の相互影響

遺伝子は、文化進化に影響を与える上で重要な役割を果たします。遺伝子は人間の脳や神経系の構造を構築するための情報を含んでおり、これが社会学習の基盤となります。また、遺伝的な特性は特定の学習や伝達を好む傾向（学習バイアス、伝達バイアス）を与える可能性があります。例えば、甘いものを美味しいと感じる、濡れると不快に感じるといった感覚は、遺伝的に作られる神経系の構造に由来し、これが食習慣や住居のあり方といった文化的な行動に影響を与え得ます。

逆に、文化は人類集団の遺伝子構成に大きな影響を与えることがあります。最も典型的な例は成人の乳糖耐性です。歴史的に酪農が盛んだった北ヨーロッパや一部のアフリカの集団では、成人しても乳糖を消化できる遺伝子が広く見られます。これは、牛乳を摂取するという文化的な習慣が、乳糖耐性に関わる遺伝子に有利な淘汰圧をかけた結果と考えられています。一方、酪農の習慣がなかった東アジアやアメリカ先住民の集団では、他の哺乳類と同様に離乳後に乳糖を分解する酵素の生産が停止する遺伝子が一般的です。このように、文化は遺伝子の進化経路を大きく左右する要因となり得ます。

文化進化を駆動するメカニズム

DITでは、文化の進化と存続を説明するためにいくつかの主要なメカニズムを提案しています。

文化的変異への自然選択: 個人が持つ文化的な特性の違いが、その個人の成功度や模倣されやすさに差を生み出し、特定の文化が広まりやすくなるプロセスです。
ランダムな文化的変異: 文化情報を学習、伝達、記憶する際の間違いによって生じる、偶発的な文化のバリエーションです。
文化的浮動: 集団内での文化的な特徴が伝達される際のランダムな偏りにより、その頻度が変動する現象です。特に小さな集団で文化が失われやすい原因となります。
ガイドされた変異: 個人が新しい文化を学習する際に、特定の適応的な基準に基づいて文化的な選択を行うプロセスです。
伝達バイアス: 文化的な特徴が個人間で伝達される際に生じる、特定の文化的特徴が選好される傾向です。これはDIT研究において特に重要視されています。
内容バイアス: 文化的な変異の内容そのものが魅力的であるかどうかに基づく偏り。遺伝的な嗜好や既存の文化的背景に影響されます。
状況バイアス: 文化的な変異の内容ではなく、伝達する個人の社会的な状況に基づいて選択される偏り。これには、模倣するモデルの特性に基づく「モデル基盤バイアス」（名声、技術、成功、類似性など）や、集団内での文化の頻度に基づく「頻度依存バイアス」（多数派に倣う服従バイアス、少数派を好む希少さバイアスなど）があります。

社会学習と累積的な文化進化

DITは、文化の進化が効率的な社会学習の進化に深く依存していると考えます。理論モデルは、遺伝的な進化が追いつけないほど環境が急速に変化する場合に、社会的な学習が進化的に有利になることを示唆しています。社会学習は他の生物にも見られますが、人間は文化を積み重ねて複雑化させていく「累積的な文化進化」という独特な能力を持っています。これは、他者を意図を持った存在として認識する認知構造の発達（ラチェット効果）や、効率的な観察学習メカニズムなどによって可能になったと考えられています。

文化的な群選択の可能性

生物学的進化においては群選択の重要性は限定的と考えられがちですが、DITは文化遺伝の特性から、文化的群選択が重要な進化要因となり得ると予測します。特に、多数派に合わせる順応バイアスは、集団内の文化を均質化しつつ集団間の文化的な違いを維持する効果があります。この集団間の文化的多様性が、集団間の存続率や成長率の違いを通じて、文化的な群選択を可能にする基盤となります。

研究の歴史と展望

人間文化が生物学的な進化と同様のプロセスを経るという考えは、チャールズ・ダーウィンにまで遡ります。20世紀後半に入り、ドナルド・キャンベルが文化進化の理論的研究を始め、リチャード・ドーキンスが「ミーム」の概念を提示しました。DITの理論的な基礎は、ルイジ・ルーカ・カヴァッリ＝スフォルツァとマーカス・フェルドマンによる遺伝子-文化共進化の数学モデルに築かれました。その後、カヴァッリ＝スフォルツァとフェルドマン、チャールズ・ラムズデンとE.O.ウィルソン、そしてロバート・ボイドとピーター・リチャーソンといった研究者たちが、文化伝達の様式、伝達バイアス、累積的な文化進化、文化的な群選択などを数学的に分析し、DITを理論的に発展させました。特にボイドとリチャーソンの研究は現在のDITの標準的な枠組みとなっています。

理論モデルの発展に比べ、DITに関する経験的な研究は長らく立ち遅れていましたが、近年では行動経済学の手法を用いた実験や、民族誌学的なフィールドワークの知見を応用することで、理論の検証が試みられています。従来の民族誌学は文化を集団共通のものと見なす傾向がありましたが、DITの検証には個人のレベルでの文化的差異に注目する視点が重要となります。

DITは、人間の行動や社会構造を理解するための包括的な枠組みを提供しうる理論として注目されています。経済学、生物学、人類学、社会学、心理学など、多様な学問分野を統合する可能性を持つ理論として、今後のさらなる発展が期待されています。

他分野との関連

DITは、人間の文化や行動を研究する様々な分野と関連を持ちますが、視点やアプローチには違いがあります。

社会学・文化人類学: これらの分野は文化やその多様性を主要な対象としますが、文化を個人を超えた集団的な実体として捉えがちです。DITはこれに対し、個人の脳内の情報としての文化や、個体レベルのプロセスが集団レベルのパターンを生み出すメカニズムを重視します。
人間社会生物学・進化心理学: これらの分野は、人間行動を遺伝的な適応度最大化という観点から説明しようと試みます。文化はしばしば遺伝的適応度の制約を受ける二次的なものと見なされがちですが、DITは遺伝的な自然選択に加えて、多様な文化的進化プロセスや、それが遺伝的適応度と必ずしも一致しない可能性も考慮に入れます。
人間行動生態学: 生態学的な環境要因と適応的な行動との関連を重視する点で人間行動生態学とDITは関連しますが、人間行動生態学は文化を環境への適応の結果と見なす傾向が強いのに対し、DITは歴史的な文化的蓄積や伝達メカニズムの役割をより強調します。
進化経済学/進化社会科学: 一部の研究者は、利他的行動などの複雑な人間行動を説明するためにDITの枠組みを応用しています。文化進化が、遺伝子単独では説明困難な社会的な行動様式の進化を促進したと考える視点があります。
ミーム学: 文化情報を「ミーム」という自己複製子として捉え、遺伝子と同様の進化を経ると考える点でDITと共通しますが、DITはミームという概念に必ずしも依拠せず、非・自己複製的な文化伝達も考慮します。また、遺伝子が文化進化能力に与える影響をより強く強調する傾向があります。

二重相続理論は、生物と文化という二つの遺産を受け継ぎ、それらを相互に作用させながら進化してきた人類の姿を理解するための、強力な理論的枠組みを提供しています。

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