刺青殺人事件

概要

『刺青殺人事件』（しせいさつじんじけん）は、推理作家・高木彬光によって執筆された長編推理小説です。本作は高木彬光のデビュー作であると同時に、作中に登場する天才探偵・神津恭介シリーズの記念すべき第一作であり、シリーズを代表する傑作として知られています。

物語は、第二次世界大戦終結から間もない、社会情勢が不安定な戦後混乱期を舞台に展開されます。その中で、妖艶な刺青にまつわる因習、厳重な密室で発生する殺人、そして胴体の欠落した死体といった怪奇的な要素が巧みに織り交ぜられた、本格的な推理の応酬が描かれます。

本作は1947年に江戸川乱歩から高い評価を受け、翌1948年に岩谷書店から刊行され世に出ました。その後、1953年に春陽堂書店の日本探偵小説全集に収録されるにあたり、作者自身によって大幅な改稿が施されました。この改稿により、作品のボリュームは約二倍となり、総原稿用紙約650枚に及ぶ長大な作品へと生まれ変わりました。形式面でも変更があり、初稿が松下研三の一人称で語られていたのに対し、改稿版では三人称形式に改められています。特に物語の前半部分（第一章、第二章、第三章、第六章、第七章など）に集中的に筆が加えられ、改稿版の語り手は高木彬光本人という設定で、松下研三が敢えて省いた都合の悪い出来事を補完するという形式がとられています。

作者は、横溝正史の『本陣殺人事件』（1946年発表）が提示した精緻な密室トリックに強い感銘を受けつつも、犯行現場が純日本的な構造を必須としない点に物足りなさを感じていました。そこで本作では、純日本的な家屋の中で最も完全に密閉されうる空間である、内側から鍵のかかった浴室を舞台に、前人未踏の密室トリックを完成させることに挑戦しています。

あらすじ

物語は1946年（昭和21年）8月20日から始まります。東大医学部法医学教室の研究員である松下研三は、東亜医大の早川博士に誘われ、「江戸彫勇会」主催の刺青競艶会を見学に訪れます。そこで研三は、かつての中学時代の先輩である最上久と思いがけず再会します。競艶会でひときわ注目を集めたのは、背中に見事な大蛇丸の刺青を彫った野村絹枝という女性でした。彼女は最上久の兄で、土建業「最上組」を営む竹蔵の愛人でした。

絹枝の醸し出す妖しい魅力に惹かれた研三は、後日彼女の自宅を訪問し、その刺青にまつわる恐ろしい由来を聞かされます。絹枝の父であり刺青師の彫安は、日本古来の伝説に登場する三匹、すなわち大蛇丸、綱出姫、自雷也を、絹枝と彼女の双子の妹である珠枝、そして兄の常太郎の三人の体にそれぞれ彫り分けたというのです。伝承では、これら三匹を同じ一人の体に彫ることは、三者が争い合い破滅を招く禁忌とされていました。

刺青にまつわる不吉な予感に不安を募らせる絹枝との約束で、下北沢にある彼女の家を再び訪れた研三は、偶然居合わせた早川博士と共に、内側から鍵のかかった浴室で絹枝の無残な姿を発見します。彼女は首と両手両足だけの状態で、胴体が消失していたのです。この猟奇的な事件に続き、絹枝の愛人であった最上竹蔵もまた、死体となって発見されます。状況は拳銃自殺を示唆していましたが、他殺の可能性も拭えませんでした。

捜査が混迷を深める中、研三は絹枝の兄である常太郎の居所を突き止めます。事件の核心に関わる秘密を握っているらしい常太郎は、「しばらく自分に任せてほしい」と研三に告げます。その言葉を信じて待つ研三でしたが、常太郎もまた全身に彫られた刺青を皮膚ごと剥ぎ取られるという凄惨な方法で殺害されてしまいます。

相次ぐ事件の責任を感じた研三は、高校時代の友人である神津恭介に再会します。神津恭介は、かつて高校在学中に整数論に関する大論文を完成させたという経歴を持つ、研三が「神津の前に神津なく、神津ののちに神津なし」と絶賛するほどの天才でした。研三は、この難解な連続猟奇殺人の謎を解き明かしてくれるよう、神津恭介に解決を依頼します。

主な登場人物

松下 研三（まつした けんぞう）: 物語の中心人物で、東大医学部法医学教室の研究員。神津恭介の友人。
神津 恭介（かみづ きょうすけ）: 研三の旧友。並外れた頭脳を持つ天才探偵。
最上 久（もがみ ひさし）: 研三の中学時代の先輩。
最上 竹蔵（もがみ たけぞう）: 久の兄。土建会社「最上組」の社長。野村絹枝の愛人。
野村 絹枝（のむら きぬえ）: 最上竹蔵の愛人。背中に大蛇丸の刺青を彫っている。
彫安（ほりやす）: 絹枝、珠枝、常太郎の父である刺青師。
野村 常太郎（のむら つねたろう）: 絹枝の兄。刺青師。
野村 珠枝（のむら たまえ）: 絹枝の双子の妹。
稲沢 義雄（いなざわ よしお）: 「最上組」の支配人。
早川 平四郎（はやかわ へいしろう）: 東亜医大の医学博士。最上兄弟の叔父であり、刺青の研究家。
松下 英一郎（まつした えいいちろう）: 研三の兄。警視庁捜査一課長。

作品の評価

本作は、その質の高さが認められ、第2回探偵作家クラブ賞の候補に選出されました。また、『週刊文春』が実施した、約500名の推理作家や愛好家を対象としたアンケートに基づく「東西ミステリーベスト100」の国内編では、1985年版で10位、2012年版で32位にランクインしており、長年にわたり日本の推理小説史における傑作として高く評価されています。

映像化

本作はこれまでに二度、映像化されています。

映画: 1953年6月17日に新東宝製作で公開されました。森一生が監督を務め、主な出演者には青野平義、三浦光子、東野英治郎らがいます。この映画版では、原作で探偵役を務める神津恭介ではなく、早川博士が探偵役として登場するという違いがあります。
* テレビドラマ: 1983年9月24日、『土曜ワイド劇場』枠でドラマ化されました。主演は近藤正臣が務めました。

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