前方舌根性

前方舌根性（ATR）：母音の音色を彩る咽頭の変化

音声学において、前方舌根性（Advanced Tongue Root, ATR）は、母音の質を決定づける重要な要素です。これは、舌根の位置を前方に移動させることで咽頭を広げ、結果として母音の音響特性に影響を与える現象です。反対に、舌根を後方に引いて咽頭を狭めることを後方舌根性（Retracted Tongue Root, RTR）と呼びます。

ATRの特性：明るい音色と母音調和

母音の音色は、舌の高さと奥行き（後舌性）、唇の丸み（円唇性）に加え、ATRによって決まります。ATRを持つ母音は、高い周波数成分が強調され、結果として「明るい」音色に聞こえます。一方、RTRを持つ母音はより暗い音色になります。

このATRは、いくつかの言語において母音調和という現象に深く関わっています。母音調和とは、単語内の母音が、ATRの有無という特徴を共有する現象です。例えば、ある単語の中にATRの母音が一つでもあれば、他の母音も全てATRでなければならない、といったルールが存在する言語があります。

国際音声記号とATR

国際音声記号（IPA）では、ATRを下付きの符号で表記します。左向きのタック（[e̘]）はATRを示し、右向きのタック（[e̙]）はRTRを示します。ただし、表記上の簡略化のため、伝統的な母音記号を使用する場合もあります。例えば、-ATRの[i̙ u̙ o̙]を[ɪ ʊ ɔ]のように表記することがあります。

アフリカ言語におけるATR

西アフリカのアカン語やイボ語などでは、ATRが母音システムにおいて非常に重要な役割を果たしています。これらの言語では、母音調和によりATRの有無によって母音がグループ分けされ、一つの単語内では原則として片方のグループの母音しか出現しません。例えばイボ語には8つの母音があり、そのうち4つがATR、残りの4つが非ATRです。

東アフリカのナイル諸語、例えばナンディ語やマサイ語でも、ATRの有無が母音の区別に関与し、母音調和が見られます。これらの言語では、母音の高さとは独立してATRの区別が存在しています。

ゲルマン語とATR

英語やドイツ語などのゲルマン語における「はり母音」と「ゆるみ母音」の対立とATRの関係については長年議論されてきました。しかし、研究者によると、アカン語などに見られるATRは、舌の高さと独立に舌根が前後に動くのに対し、英語やドイツ語では舌根の動きと舌の高さに相関関係があるため、両者は別物と考えるべきであるとされています。

ATRと喉頭の高低

Peter Ladefogedは、ATRの区別は必ずしも舌根の位置によって行われるのではなく、喉頭の高さを変えることによって咽頭の容量を変えることによっても実現される可能性を示唆しました。このため、「前方舌根性」という用語はやや不適切であり、「咽頭の拡張」といった用語の方が適切かもしれないという意見もあります。

まとめ

ATRは、母音の音色や言語の母音システムを理解する上で重要な概念です。その音響的特性、言語における多様な表現、そして他の音声特徴との関係性について、今後も更なる研究が必要とされています。特に、ATRと喉頭の高低の関係については、今後の研究によってより深い理解が得られることが期待されます。

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