北越奇談

『北越奇談』は、1812年（文化9年）に刊行された、越後国（現在の新潟県）を舞台にした随筆集です。全6巻からなる本書は、橘崑崙という文人が著し、戯作者として名を馳せていた柳亭種彦が校合・監修、そして序文を執筆しています。さらに、当時すでに人気絵師として知られていた葛飾北斎が、多くの挿絵を担当。橘崑崙自身も絵を描く才能を持っており、いくつかの下絵を描いています。

本書の中心となるのは、北越地方に伝わる怪異談や、その土地の奇岩、怪石、珍しい植物などの博物学的記録です。特に4巻と5巻は「怪談」と題され、妖怪を題材にした物語が数多く収録されています。著者の橘崑崙は、怪異や奇跡を盲目的に信じるのではなく、むしろ懐疑的な視点やユーモラスな視点を交えながら、怪異な出来事をそのまま記録している点が特徴です。竜などの伝説上の生き物についても、架空の存在として明確に位置付けています。

興味深いのは、これらの怪異譚の中に、当時の北越地方の生活や人々の考え方、風習などが自然な形で織り込まれている点です。読者は、不思議な物語を通して、200年近く前の地域社会の様子を垣間見ることができます。3巻には、海保青陵という人物が書いた原稿が収録されていますが、これは『北越奇談』の刊行よりも7年も前に書かれたものでした。このことから、本書の出版には相当な時間と労力が費やされ、複雑な経緯があったことが想像できます。また、目録に「右前編6冊」と記され、巻末には「北越奇談後編続出」という広告が掲載されていることから、橘崑崙は後編の執筆を計画していたものの、結局は実現しなかったことがわかります。後編の草稿が存在したのかどうかは、現在も不明です。

『北越奇談』刊行当時、橘崑崙はまだ無名の人物でした。一方、葛飾北斎はすでに浮世絵界の代表的な絵師として知られ、柳亭種彦も新進気鋭の戯作者として人気を集めていました。版元が、無名の橘崑崙の作品を世に出すために、これら著名な人物を起用したことは、当時の出版戦略の巧みさを物語っています。

『北越奇談』は、『北越雪譜』（1837年刊行）と並んで、越後を代表する二大奇書として知られています。『北越雪譜』の作者である随筆家・鈴木牧之は、自著『北海雪見行脚集』の中で、『北越雪譜』の取材中に橘崑崙に会ったことを記しています。両書は刊行時期も近く、記述内容にも共通点が見られることから、『北越奇談』が『北越雪譜』の執筆に何らかの影響を与えた可能性も考えられます。

『北越雪譜』が雪国の厳しい自然と生活を描いた重厚な作品であるのに対し、『北越奇談』は、娯楽性を重視した作品です。そのため、江戸時代の人々には『北越奇談』の方が受け入れられやすかったと考えられています。しかし、現代においては、『北越雪譜』は鈴木牧之が残した多くの資料に基づいて詳細な研究が進められている一方、『北越奇談』は葛飾北斎の挿絵が評価されているものの、随筆としての研究はそれほど進んでいません。これは、橘崑崙の生没年や生涯に関する記録がほとんど残っておらず、謎の人物であることが大きな要因となっています。このように、越後の二大奇書は、様々な点で対照的な存在と言えるでしょう。

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