哲学館事件

哲学館事件（てつがくかんじけん）

哲学館事件とは、1902年（明治35年）に私立哲学館（現在の東洋大学）で発生した、学問の自由を巡る大きな論争事件です。この事件は、哲学館の卒業試験における倫理学の設問が発端となり、文部省が介入、最終的には卒業生の教員無試験検定許可を取り消すという事態に発展しました。早稲田大学や慶應義塾大学など他の大学も哲学館を擁護し、教育界、言論界、社会全体を揺るがす大問題となりました。

事件の背景

事件の背景には、旧制中等教育学校教員の資格認定制度がありました。本来、教員無試験検定資格は官立の高等師範学校卒業生に与えられるものでしたが、哲学館の創立者である井上円了は、私立学校卒業生にもその資格を開放すべきだと主張していました。井上は國學院、東京専門学校（現在の早稲田大学）と共に文部省へ働きかけ、1899年（明治32年）に「中学校令」が改正され、哲学館を含む3校の卒業生に中等教員無試験検定資格が認められました。

事件の経緯

1902年（明治35年）、哲学館から初の無試験教員が誕生するはずでしたが、卒業試験の倫理学の答案を検定した視学官・隈本有尚が、倫理学教師・中島徳蔵の出題した内容を問題視しました。問題となったのは、「動機が善でも悪となる行為はあるか」という問いでした。学生の解答の中に、イギリスの哲学者ジョン・ヘンリー・ミュアヘッドの倫理学説に沿った、「自由のための弑逆も罪となる」という一文が含まれていました。隈本視学官は、この考え方が「天皇も殺してよい」という思想につながり、国体を危うくすると解釈しました。

この見解に基づき、文部省は哲学館の卒業生に対する教員無試験検定資格を一方的に取り消しました。文部省は取り消しの理由として、「哲学館の罪は閉鎖に相当するが、内情を考慮して認可取消に留める」と説明しました。また、中島徳蔵も哲学館と東京高等工業学校の講師を諭旨退職させられるという処分を受けました。

論争の激化

中島徳蔵は、この処分に不服を唱え、『読売新聞』などの新聞に反論記事を投稿しました。これに対し、隈本視学官や文部省も新聞上で反論を展開。言論による応酬が繰り広げられました。この論争は、教育の自由、学問の自由というテーマを喚起し、都下の新聞や雑誌で活発な議論が巻き起こりました。衆議院でもこの事件に関する質疑が行われるなど、政治問題化もしました。東京朝日新聞、毎日新聞、中国民報などの社説、慶應義塾大学、早稲田大学などの学報は中島を擁護する論説を掲載しました。一方、東京帝国大学の哲学会は沈黙を守り、同大文科大学長の井上哲次郎は文部省に同調する姿勢を示しました。

海外にもこの事件の影響は及び、『倫理学』の著者ミュアヘッド自身が日本の新聞に寄稿し、論争に参加しました。当時の倫理学界の中心的存在であった丁酉倫理会の主要会員が連名で、「ミュアヘッドの動機説は教育上危険ではない」という見解を示し、ようやく世論は収束に向かいました。

事件の影響

哲学館は事件後、東洋大学と改称し、大学令による大学となりました。しかし、他大学に比べて認可が遅れた背景には、哲学館事件の影響があったとも言われています。もっとも、東洋大学側の資料によれば、事件との関連性は認められていません。この事件は、教育史における重要な出来事として記憶され、松本清張の小説『小説東京帝国大学』の題材にもなっています。

その後、哲学館では中等教員無試験検定資格の再認可を求める動きが起こりました。井上円了の引退後、1907年（明治40年）に再認可が実現しています。

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