報恩記

芥川龍之介『報恩記』：恩返しという名のエゴイズム

『報恩記』は、1922年（大正11年）に発表された芥川龍之介の短編小説です。安土桃山時代の京都を舞台に、盗賊、廻船商人、そして商人の勘当された息子の三人が、それぞれ自身の視点から「恩返し」の物語を語り、その真相へと迫ります。

物語は、三者それぞれの告白という構成をとっています。これは、芥川龍之介の代表作である『藪の中』を彷彿とさせますが、『藪の中』のように証言が矛盾するのではなく、『報恩記』では三者の証言が精密に組み合わさり、全体像を浮かび上がらせていきます。その過程で明らかになるのは、一見善行に見える「恩返し」の裏に潜む、人間のエゴイズムという複雑な真実です。

盗賊・阿媽港甚内の告白

盗賊の阿媽港甚内は、かつて廻船商人・北条屋弥三右衛門に恩を受けた過去を語ります。20年前、弥三右衛門が船頭をしていた頃、甚内は殺人犯として逃亡中でした。弥三右衛門は甚内の逃亡を手助けし、甚内は弥三右衛門に恩義を感じていました。

それから数年後、甚内は虚無僧に扮し、経済的に困窮している弥三右衛門の屋敷に忍び込みます。そこで弥三右衛門の嘆きを聞き、過去の恩返しとして6000貫の金を用意すると約束します。しかし、約束を果たした甚内は、「今夜ミサを願いに来た、ぽうろの魂のために済まない」と言い残し、姿を消します。

廻船商人・北条屋弥三右衛門の告白

廻船商人である弥三右衛門は、2年前の危機的状況を説明します。持ち船の沈没や投資の失敗により、店は倒産寸前でした。絶望の淵にいた弥三右衛門の前に、虚無僧に扮した甚内が現れ、恩返しとして6000貫の金を用意すると告げます。

甚内は、かつて弥三右衛門に逃亡を手助けされた過去を語り、その恩を返したいと願います。弥三右衛門は半信半疑ながらも、数日後、庭先で何者かの争う音が聞こえ、その直後に甚内が現れ、6000貫の金を渡します。この金のおかげで、弥三右衛門の店は倒産を免れました。

しかし、後に甚内が捕まり、晒し首にされたとの噂を耳にした弥三右衛門は、その首を確認しようと一条戻橋へ向かいます。そこで見たのは、2年前の甚内とは似ても似つかぬ、かつて勘当した一人息子・弥三郎の首でした。弥三郎の首は微笑みかけ、父を救ったのは甚内であること、甚内に何かあったら命を投げ出す覚悟だったことを告げます。弥三郎の行為は、一見親孝行のようでありながら、同時に自分のエゴを満たすための行為であったと読み取れます。

「ぽうろ」弥三郎の告白

弥三郎は、処刑される直前に自身の物語を語ります。彼は博打好きで、金欲しさに実家に忍び込んだところ、甚内に見つかり、投げ倒されました。しかし、後に甚内が両親を救ったことを知った弥三郎は、甚内への恩返し、あるいは仕返しをしたいと願います。

様々な葛藤の末、弥三郎は甚内の代わりに処刑されることを決意します。甚内の素顔を両親以外知っている者はいないと考えた弥三郎は、わざと内裏に忍び込み、甚内として捕縛され、処刑されます。弥三郎の行為は、甚内への崇拝と自己犠牲という複雑な感情の表れであり、一種の歪んだ「恩返し」と言えるでしょう。

三者の告白と「恩返し」の虚実

三者それぞれの告白によって明らかになるのは、「恩返し」という行為の虚実です。甚内の行為は、過去の恩義を返そうとする行為という表面的な理由だけでなく、自分の罪悪感を軽減させようという自己満足的な側面も持ち合わせています。弥三右衛門は、息子の犠牲によって店は救われたものの、息子を失った悲しみと甚内への複雑な感情を抱えています。弥三郎の行為は、甚内への狂信的な崇拝と、自分の罪を償いたいという自己中心的願望が混ざり合ったものです。

『報恩記』は、単純な恩返しの物語ではなく、人間のエゴイズムや自己欺瞞、そして複雑な人間関係を巧みに描いた作品です。三者それぞれの視点と、それらの証言が織りなす物語は、読者に深い衝撃と余韻を与え続けます。一見すると善行に見える行為の裏に隠された人間の心の闇、そして「恩返し」という行為の本質について考えさせられる、芥川龍之介の代表作の一つと言えるでしょう。

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