妖精の女王 (スペンサー)

『妖精の女王』とは

『妖精の女王』（The Faerie Queene）は、16世紀後半のイングランドを代表する詩人、エドマンド・スペンサーが生涯をかけて創作した、壮大なスケールを持つ長編叙事詩です。当時のイングランド女王エリザベス1世に献呈された本作は、豊かなアレゴリー（寓意）を駆使し、騎士道の理想や人間が持つべき様々な徳目を探求しています。

物語の舞台はアーサー王伝説の世界であり、妖精の国の女王グローリアーナ（エリザベス1世を象徴）の命を受けた騎士たちが、それぞれの巻で特定の徳を体現しながら冒険を繰り広げます。スペンサーは当初、騎士道における12の徳目を描く全12巻の構想を抱いていましたが、完成したのは神聖、節制、貞節、友情、正義、礼節を扱った6巻と、いくつかの断篇にとどまりました。

本作は、古代ローマの詩人ウェルギリウスが叙事詩『アエネーイス』で初代ローマ皇帝アウグストゥスの権威を高めたように、当時のテューダー朝、特にエリザベス1世の正当性と栄光を称揚するという政治的な意図も含まれています。テューダー家がアーサー王の子孫であるという伝説を結びつけることで、その統治を神聖化しようとしたのです。その文学的な深さと複雑な寓意によって、『妖精の女王』は英文学における重要な傑作の一つと位置づけられています。

主要な登場人物

『妖精の女王』には多くの騎士や人物が登場しますが、特に重要な二人を紹介します。

アーティガル

第五巻『正義』の主人公として描かれる騎士、アーティガルは、その名の通り正義を体現する存在です。彼は、主神ジュピターより授けられたという伝説の黄金の剣『クリセイオー』、無敵の存在とされる鉄人タラス、そして古代ギリシャの英雄アキレウスがかつて纏ったという鎧を携え、まさに当代最強の騎士として登場します。

幼い頃から正義の女神アストライアに教育を受けた彼は、揺るぎない正義感を胸に、困窮する人々を助ける旅を続けます。物語では、暴君グラントートーに国を奪われた乙女アイリーナの訴えを聞き、妖精の女王の命を受けてその国を取り戻すという使命を担います。道中、彼は『クリセイオー』を用いて不正に立ち向かう敵を次々と打ち破り、武勇と正義の力によって勝利を収めていきます。

しかし、絶対的な強さを誇る彼にも意外な弱点があります。それは、顔を隠して強気な態度を取る美しい女性に対して弱いという一面です。一度はアマゾン族の女王ラディガンドの美貌に心を奪われ、捕虜となる危機に瀕しますが、後に運命の恋人となる女騎士ブリトマートによって救出されます。最終的に、アーティガルはグラントートーを打ち倒し、アイリーナにその国を返還するという使命を果たし、正義の勝利を示します。

ブリトマート

第三巻『貞節』の中心的な人物であるブリトマートは、全身を重厚な鎧で覆い、その素顔や性別が容易には判別できない謎めいた女騎士です。彼女の名前は、ブリテン島を意味する「Brit」と、ローマ神話の軍神「マールス（Martis）」を組み合わせたものとされ、戦士としての力量と、将来ブリテンの運命を担う存在であることを示唆しています。

ブリトマートは、魔法の鏡を通して未来の夫となる騎士アーティガルの姿を目にし、瞬く間に彼へ激しい恋心を抱きます。その恋を成就させるため、彼女は乳母の助けを借りて、伝説のサクソン族のアンジェラ姫が纏っていたという強力な魔法の鎧を手に入れ、アーティガルを探す旅に出発します。

ブリテン島を巡る旅の途中で、彼女は並外れた武勲を立て、多くの強力な騎士たちを打ち破ります。そして皮肉なことに、探していたアーティガル自身とも剣を交えることになります。彼女の持つ魔法の槍は、相手がどれほど巧みに馬術に長けていても必ず落馬させるという特別な力があり、アーティガルもまた、目の前の相手が女性とは知らずにこの槍の前に敗れ去ります。

自身の敗北に屈辱を感じたアーティガルは再戦を挑み、優位に立ちますが、その激しい攻防の中でブリトマートの兜が破れ、その美しい素顔が現れます。その顔を見たアーティガルは、瞬時に彼女に恋に落ちます。こうして、二人は運命的な出会いを果たし、将来の結婚を約束することになるのです。ブリトマートは単なる恋する乙女ではなく、自ら運命を切り開き、強力な力を持つ独立した女性騎士として描かれています。

日本語訳と関連作品

『妖精の女王』の日本語訳としては、和田勇一氏と福田昇八氏による翻訳版が広く知られています。これは、筑摩書房より1994年に刊行され、後に新版がちくま文庫より2005年に全4巻として出版されています。

関連作品としては、L・スプレイグ・ディ＝キャンプとフレッチャー・プラットの協同執筆によるパロディ小説『妖精郷の騎士』があります。これは現代人が『妖精の女王』の世界に迷い込むというユーモラスな作品です。

近年では、ソーシャルゲーム『Fate/Grand Order|Fate_Grand Order』に登場するキャラクター、ブリトマートが、本作のブリトマートとアーティガルの娘であるという設定がなされるなど、現代のポップカルチャーにおいてもその影響が見られます。

もう一度検索