存在と無

『存在と無―現象学的存在論の試み』

フランスの哲学者、ジャン＝ポール・サルトルの思想を代表する記念碑的な著作が、『存在と無―現象学的存在論の試み』です。第二次世界大戦中の1943年10月、ドイツ占領下のパリで静かに世に出た本書は、当時まだ一高校教師に過ぎなかったサルトルを一躍、時代の寵児とし、20世紀後半の思想界に絶大な影響を与えた実存主義ブームの原点となりました。刊行されるや否や、哲学のみならず、あらゆる分野で議論を巻き起こし、哲学書としては異例のベストセラーとなり、現在も読み継がれています。

現象学的アプローチによる存在探求

本書の副題が示す通り、『存在と無』は、現象学という哲学的手法を基盤に据え、「存在とは何か」という根源的な問いに挑みます。一般的に、実存哲学は人間存在の自由や不条理を探求する過程で、時に論理的な整合性を欠いたり、逆説に陥ったりすることが少なくありませんでした。しかし、サルトルの本書は、驚くべき緻密さと、まるで数学を扱うかのような厳密な論理構成によって、そうした陥穽を回避し、人間の自由と責任、他者との関係性を深く掘り下げています。

重層的な構成と主要概念

『存在と無』は、「緒論」に始まり、四つの主要な部から構成されています。

緒論: 現象学的立場から、存在のあり方を論じます。
第一部「無の問題」: 意識の働きである「志向性」や、対象を否定することで生じる「無化作用」、そしてそこから生じる「無」という概念を探求します。
第二部「対自存在」: 意識を持つ人間存在を「対自存在」と呼び、それ自身として存在するモノを「即自存在」として対比させながら、対自存在の構造を詳細に分析します。
第三部「対他存在」: 他者との関係性を論じ、特に他者の「まなざし」によって自己が客体化されるプロセスを分析します。
* 第四部「『持つ』『為す』『ある』」: 人間のあらゆる行動をこの三つのカテゴリーに集約し、それを基盤とした「実存的精神分析」を提示します。

人間存在の「自由の刑」と「無意味な受難」

本書の中心的な思想の一つは、人間存在、すなわち「対自存在」の特異なあり方です。サルトルは、人間を、モノのように「あるところのものである」即自存在とは根本的に異なり、「あるところのものでなく、あらぬところのものである」存在と規定しました。これは、人間が常に自己を超え出て、否定性や無化作用を通じて自己を形成していく「脱自構造」を持つことを意味します。そして、この無化作用こそが、人間の根源的な自由を構成するのです。人間は、自己のあり方を自ら選択することを「余儀なくされる」存在であり、サルトルはこれを「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。この絶対的な自由は同時に、自己の選択とその結果に対する絶対的な責任を伴います。しかし、この自由は深い不安をもたらすため、人間はしばしば自己の自由から逃避し、状況や他者のせいにすることで責任を回避しようとします。これが「自己欺瞞」と呼ばれる状態です。他者との関係性においては、対自である自己は、他者を「まなざす」ことによって客体化してしまうため、本質的に相克的な関係に留まるとされます。非人間的で偶然的な即自的世界と、他者との間に生じる根本的な断絶の中で、自己の自由な選択によって自己を構築していく人間の生は、結局のところ「無意味な受難」であると、サルトルは厳しく結論付けます。

本書の最後に、サルトルは倫理学に関する続編を執筆することを予告しますが、残念ながらこれは完成しませんでした（ただし、遺稿として『倫理学ノート』が存在します）。

後世への影響と再評価

『存在と無』は、1960年代までは実存主義のバイブルとして広く読まれましたが、1970年代以降は構造主義などの台頭により一時忘れ去られた感がありました。しかし、近年、ベルナール＝アンリ・レヴィをはじめとする哲学者たちによって、その思想の現代的意義が見直され、再び注目を集めています。本書が、エマニュエル・レヴィナスの「他者の顔」に始まる倫理学、モーリス・メルロー＝ポンティの身体論や両義性の現象学、さらにはジル・ドゥルーズやジャック・デリダといった、その後のフランス現代思想における重要な思想家たちに与えた触発は計り知れません。まさに20世紀フランス哲学の古典であり、現代思想の源流の一つとして、その価値は揺るぎないものとなっています。

日本語訳は、長らく松浪信三郎氏による訳が広く読まれており、人文書院から刊行された後、現在はちくま学芸文庫に収録されています。

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