安永浩

安永 浩

安永 浩（やすなが ひろし）氏は、1929年に東京に生まれ、2011年に逝去した日本の医学者、精神科医です。東京大学医学部を卒業後、精神病理学を専門とし、東京大学医学部助教授などを歴任しました。その学術的な功績は、特に統合失調症の病理体験に関する独自の理論体系である「ファントム理論」の構築に集約されます。安永氏は、笠原嘉、中井久夫、木村敏、宮本忠雄といった同時代の精神病理学者たちと共に、日本の精神病理学における第二世代を代表する重要な人物として位置づけられています。

ファントム理論

概要

ファントム理論は、統合失調症患者が経験する病的体験の本質的な構造を解明しようとする理論体系です。安永氏によれば、この理論は、病的な体験形式の中でも、最も核心的で本質的な部分を的確に捉えることを目的としています。その名称には「ファントム論」「ファントム空間論」など複数の表記がありますが、「ファントム理論」という通称で知られています。

安永氏は、健常者の体験世界を律する根源的な原則や法則があるとした上で、統合失調症の患者の体験世界は、そうした原則や法則が転倒あるいは否定されたような様相を呈すると見なしました。この視点から、理論の基盤となる『パターン』、ファントム空間、図式といった概念を提唱しました。さらに、脳内の生理的機能の障害として、「a’系の弾性率の低下」という単一の仮説を提示し、そこから導かれる論理的な帰結として、病的体験が「錯覚としての『パターン』逆転」として生じる機構を説明します。理論の名称にある「ファントム」という言葉は、幻影肢（phantom limb）に由来しており、幻影肢が本人にとって実体的なものであるように、ファントム空間も主体にとっては現実的なものであることを示唆しています。

基本概念

ファントム理論を支える主要な概念は以下の通りです。

『パターン』: イギリスの哲学者ウォーコップの概念に基づき、自／他、生／死などの根源的なカテゴリー対を指します。これらは一方が他方を前提とし、論理的に非対称性を持つといった特徴があります。安永氏はこれを区別するため二重カギ括弧で『パターン』と表記しました。
『パターン』逆転: 『パターン』を構成する二つの項の力関係（強度）が通常とは逆に、劣位な項が優位になる状態を指します。統合失調症の病的体験は、この『パターン』逆転として捉えられる側面があると考えられます。
ファントム空間: 体験の強弱を心理的な距離（体験距離）に置き換えた概念です。体験が強いほど距離は短く、弱いほど距離は遠くなります。この体験距離から成り立つ空間をファントム空間と呼び、これは主観的でありながら意識の基盤を形成すると考えられます。体験の強度はa強度（意識的エネルギー）とb強度（意識外のエネルギー、a'系）によって規定されます。
図式 (Schema): イギリスの心理学者グレゴリーの物体仮説を拡張した概念です。対象や自己を空間的存在として認識する無意識的な枠組みを指します（自我図式、対象図式など）。これは瞬間的には固定されており、体験の強度とは区別されます。ファントム空間が体験の「媒質」なら、図式はその距離を測る「目盛り」に例えられます。
錯覚運動の法則: 身体の一部を動かそうとする意図と実際の運動の不一致によって、外界や自己が予期せぬ動きとして知覚される現象です。外転神経麻痺や、足が縮んだように感じて地面が沈んだように錯覚する思考実験（双脚モデル、単脚モデル）などが例に挙げられます。不動であるはずの基準点が動くという意外性が特徴です。

仮説と推論

安永氏は、理論の唯一の仮説として、脳内の機能系であるa'系（意識外のファントム・エネルギー系）の弾性率が病的に低下することを提示しました。この機能障害の原因は不明としながらも、これが引き起こす体験の変化を論理的に推論しました。障害が起きていることを主体が知覚しないという条件下で、a系（意識的）とa'系（意識外）の間で体験される距離にずれが生じると考えられます。特に知覚体験において、a'系が対象図式(F)の距離を評価し、a系が対象極(f)の距離を評価しますが、a'系の機能低下によりfがFよりも近く感じられ、結果としてFとfの間に何も無い空虚な裂隙が生じるという事態を導き出しました（Af-Fと表記）。これは離人症など一部の症状と関連づけられます。

公式

上記の推論から、統合失調症における体験空間の主要な二つの類型が形式的に導き出されます。

第1公式 (Af-F): 体験距離のずれが対象側で処理される場合です。対象図式(F)と対象極(f)の間に裂隙が生じ、対象が遠ざかったように感じられます。錯覚運動の法則における双脚モデル（地面が沈む）に対応し、大地の沈降感や自我収縮感といった症状と関連します。これは錯覚としての『パターン』逆転を示します。
* 第3公式 (E-eB): ずれが主体側で処理される場合です。自我図式(E)が自極(e)の背後へ逸脱したように感じられます。錯覚運動の法則における単脚モデル（体が前のめりになる）に対応し、幻聴における言葉の主や「させられ体験」など、自己の主体性が侵犯される感覚と結びつきます。

理論の意義

ファントム理論は、統合失調症に見られる自我障害、幻覚、妄想、離人症といった多様な症状を、その機構において統一的に理解することを可能にすると考えられます。特に、妄想などに現れる矛盾的な二面性といった病的な体験の性質を説明する上で有効です。安永氏はこの理論を通じて、統合失調症を人格自体の根本的な欠陥によるものではなく、脳機能のある中間節の機能障害に起因する病態として捉え直す視点を提示しました。これは、統合失調症患者の人格は本来無傷であり、この病が神秘的でも人格欠陥でもなく、生理的な基盤を持つ「普通の病気」であるという見方を可能にする点で、重要な意義を持ちます。また、一見して図式の崩壊に見える思考障害なども、図式自体の損傷ではなく、思考のファントム空間における変化として説明できると論じました。

安永氏の主な著作には『精神の幾何学』や数冊の著作集などがあり、その理論は後世の精神病理学研究にも影響を与えています。彼は、笠原嘉、木村敏、宮本忠雄、中井久夫といった著名な精神病理学者たちと交流し、日本のこの分野の発展に貢献しました。

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