安部英

安部英（あべ たけし）は、日本の医学界において重要な役割を担った医師、医学博士です。1916年5月15日、山口県長門市の網元の家庭に生まれました。学業においては優秀な成績を収め、旧制大津中学校から旧制山口高等学校を首席で卒業後、1941年に東京帝国大学医学部医学科を卒業しました。東京大学にて医学博士の学位を取得しており、学位論文のテーマは「プロトロンビンに関する研究」でした。

医師としてのキャリアは、海軍軍医大尉として従軍することから始まりました。戦後は東京大学医学部第一内科の助手を経て、コーネル大学への留学も経験しました。帰国後、1964年には東京大学医学部第一内科の講師に就任します。1971年には帝京大学に招かれ、医学部教授となり、その後、1980年から1987年にかけて医学部長を務めました。帝京大学の名誉教授となり、1987年から1996年までは副学長を務めるなど、教育・研究機関の運営においても要職を歴任しました。これらの功績に対し、1992年4月には勲三等旭日中綬章を受章しています。著書としては、随筆集「シャルロッテンルンドの森の道」を自費出版しています。

安部氏は、血友病治療の権威として国内外に知られていました。その専門知識から、1983年に厚生省内に設置されたエイズ研究班の班長を務めることになります。この時期は、非加熱血液製剤を介したHIV感染が社会問題化する前夜であり、血友病患者の治療に用いられる製剤の安全性確保が喫緊の課題でした。安部氏が班長を務めた研究班では、非加熱製剤の使用継続が議論の焦点となりました。当初、安部氏は非加熱製剤の全面的な使用禁止を含む強力な対策の必要性を訴えていたとされますが、様々な立場からの働きかけを受ける中で、その姿勢は軟化していったと指摘されています。結果として、班内の一部からの反対意見がありながらも、非加熱製剤の使用継続が決定されました。

研究班の活動中、安部氏の姿勢や言動は批判の対象となることもありました。例えば、血液製剤小委員会の委員長であった弟子の風間睦美氏が、安全性がより高いとされるクリオ製剤の適用を認める方向性を示した際に、「非常に危惧しなければならない」「終生浮かばれない」といった強い言葉で風間氏を詰問したと伝えられています。この詰問後、小委員会は非加熱製剤の継続使用を最終答申しました。また、厚生省の担当官が増田和茂氏が非加熱製剤からの切り替えを進言した際も、「血友病の専門家でない君に何がわかる」と退けられたとする証言があります。一方で、1983年6月の研究班の初会合では、「私は一人（エイズで）殺しているんです」「毎日、（非加熱血液製剤には）毒が入っていると思いながら注射している」「今も次から次に毎日注射している。明日にも（HIV感染者が）出るかもしれない」といった、製剤の危険性に対する強い認識を示す発言もしていたとされています。

患者側の動きもありました。1983年には、非加熱製剤の危険性を感じた患者会が国産のクリオ製剤への切り替えを厚生省に要望しようとしましたが、安部氏からの指示により要望内容が修正されたという証言があります。また、1984年には帝京大学の松田重三教授が非加熱製剤の投与中止と代替製剤の使用を求めたものの、「血友病の治療を分からない奴が何を言うんだ」と安部氏に拒絶されたとする証言も存在します。同年9月には、厚生省のエイズ調査検討委員会が症例報告を求めた際に、帝京大学からの報告が遅れたことも指摘されています。

薬害エイズ事件が社会的な問題として顕在化するにつれて、血友病治療の第一人者であった安部氏の、非加熱製剤の使用継続に関する責任が問われることとなりました。1985年5月から6月にかけて、帝京大学医学部附属病院において、安部氏が担当した血友病患者に非加熱製剤が投与され、その患者がHIVに感染し、後にエイズで死亡した事例が発生しました。この事例などが、刑事責任追及の対象となります。

1996年8月、安部氏は業務上過失致死の容疑で逮捕、同年9月には起訴されました。起訴内容は、自らが担当した患者への非加熱製剤投与によるHIV感染・死亡に関するものであり、製剤の流通そのものに関する責任ではありませんでした。刑事裁判は長期にわたり争われ、2001年の一審（東京地方裁判所）では、検察の求刑（懲役3年）に対し無罪判決が言い渡されました。この判決は、事件当時の1985年にはHIVの性質や危険性についての認識が十分でなかったこと、代替治療法にも課題があったこと、そして一部の証言の信用性に疑問があることなどを理由として挙げました。この無罪判決に対しては、「毎日新聞」社説などが「急所を外し説得力に乏しい」「ミドリ十字との関係への言及がない」などと批判を展開し、また元最高検察庁検事の土本武司氏も「無罪は不当」との見解を示しました。一方で弁護側は、安部氏の逮捕・起訴はメディアや検察の過剰な反応によるものだと主張しました。

検察側は一審無罪判決を不服として控訴しましたが、2004年2月、東京高等裁判所は安部氏について、脳血管性障害などによる認知症や心疾患などの身体的な障害により、刑事裁判を継続する能力がないと判断し、公判を停止しました。これにより、安部氏の刑事裁判は事実上、終結しました。

薬害エイズ事件に関連して、複数の民事訴訟も提起されました。ジャーナリストの櫻井よしこ氏の記事を巡る訴訟では、一審で安部氏が敗訴したものの、二審で逆転勝訴、しかし最高裁では再び逆転敗訴となりました。加熱製剤の治験時期に関する毎日新聞およびサンデー毎日の記事に対する訴訟でも、安部氏側は敗訴しています。一方で、新潮社の週刊新潮の記事で「大量殺人の容疑者」と記述された件に関する訴訟では、安部氏側が一審、二審、最高裁の全てで勝訴し、新潮社に対し損害賠償の支払いが命じられました。また、公判中に傍聴席から右翼団体所属の少年に殴り倒されるという事件も発生し、少年は暴行罪で有罪が確定しています。

安部氏は2005年4月25日、東京都内の病院にて88歳で死去しました。遺族の意向により、通夜や葬儀、告別式などは行われず、家族・身内のみによる密葬が執り行われた後に死去が公表されました。妻は、元香川県知事で読売新聞社副社長を務めた高橋雄豺氏の三女です。

安部英氏の人生は、輝かしい医学研究・教育者としての功績と、薬害エイズ事件における中心人物としての責任問題という、二つの側面によって特徴づけられます。特に薬害エイズ事件での彼の立場と裁判の経緯は、医学研究者や臨床医の倫理、製薬企業との関係、そして国家の責任といった、現代社会においても深く議論されるべき多くの課題を問いを残しました。

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