富士見産婦人科病院事件

1980年、埼玉県所沢市に存在した富士見産婦人科病院（現在の富士見市にある同名病院とは異なる）において、医療における倫理と適正性が問われる重大な事件が発覚しました。当時、この病院は豪華な内装と施設を備え、ホテルを思わせるような外観から、埼玉県内外から多くの患者を集め、盛況を呈していました。

事件の発端と問題点

事件の契機となったのは、ある妊婦がこの病院で子宮癌と診断されたものの、別の医療機関で改めて検査を受けた結果、全く異常がないことが判明したことです。これにより、富士見産婦人科病院で診察を受け、診断のみを信頼して子宮や卵巣の摘出手術を受けた多くの女性たちが、実際には健康な臓器を摘出されたのではないかという深刻な疑惑が持ち上がりました。

さらに、病院の理事長であった北野早苗氏が、当時まだ普及途上にあった超音波検査を用いて診療行為を行っていたにもかかわらず、医師免許を持たない無資格者であったことがその後の調査で明らかになります。これらの問題が表面化し、1980年 9月10日、理事長は傷害容疑で逮捕されました。この出来事は、同月12日の朝日新聞による報道で広く社会に知られることとなりました。

刑事・民事裁判および行政処分

事件は刑事・民事の二つの側面から裁かれました。

刑事裁判:
健全な臓器の摘出行為については、検察当局は当初傷害罪での立件を検討しましたが、「手術の目的の相当性に疑いが残るものの、病院という特殊な場での立件は困難」との理由で不起訴処分としました。この不起訴決定後に行われた別の裁判において、事件当時の警察による臓器鑑定の結果が初めて公開されました。鑑定対象となった40体の子宮のうち、病院で子宮筋腫と診断されていた39体のうち実際に筋腫が確認できたのはわずか9体であり、さらに手術が必要と判断されたのはそのうちの1体のみで、しかも子宮全体や卵巣の摘出は不要であったことが示されました。しかし、この時点では既に傷害罪の公訴時効が成立していました。

一方、理事長による無資格診療に関しては、理事長が医師法違反、その診療を見過ごしていた院長（理事長の妻で医師の北野千賀子氏）が保健師助産師看護師法違反の容疑でそれぞれ起訴されました。裁判の結果、1988年1月には理事長に懲役1年6か月執行猶予4年、院長に懲役8か月執行猶予3年の有罪判決が確定しました。

民事訴訟:
1981年には、元患者の女性たち63人が、不要な手術によって健康な臓器を摘出されたとして、病院側に対して約14億円の損害賠償を求める民事訴訟を提起しました。約18年におよぶ審理を経て、1999年6月、東京地方裁判所は病院で行われた医療行為を「故意による病院ぐるみの不必要な摘出手術」「およそ医療に値しない乱診乱療」と厳しく断罪し、元理事長夫妻を含む関係者7名に対し賠償を命じる判決を下しました。元理事長夫妻はこの判決を受け入れ控訴を断念しましたが、他の医師の一部は控訴を続けました。最終的に2004年7月、最高裁判所が医師らの上告を棄却し、元理事長夫妻と合わせて総額5億1400万円の賠償金支払いが確定しました。提訴から解決まで、実に23年という長きにわたる法廷闘争でした。

医師免許に関する行政処分:
民事裁判で明確な過失が認定され、「犯罪的」とまで指摘された医療行為を行ったにもかかわらず、医師免許が取り消されずに診療を続けていた医師たちがいたことから、被害者たちはこれ以上の被害を防ぐため、厚生省（後の厚生労働省）に対して粘り強く行政処分を働きかけました。当初、医道審議会は刑事事件化されていない事案に対する処分を見送る傾向があり、一度は医師らを処分しない決定がなされました。しかし、被害者たちの活動が継続され、2002年には刑事事件とならなかった医療過誤についても、明白な注意義務違反があれば処分の対象とする新たな方針が示されます。これを受け、2005年 3月2日、医道審議会は確定した民事判決に基づき、元院長に対し医師免許取り消し処分を決定しました。他の勤務医3名も業務停止処分を受けました。事件発覚から25年を経ての下されたこの処分は、民事判決の認定のみに基づいて医師免許が取り消された初めての事例であり、医療行為そのものが問題視されて免許剥奪に至った点でも画期的なものでした。元院長は処分取り消しを求めて裁判を起こしましたが、2009年に最高裁で免許取り消しが確定し、その後の再交付請求も2013年の東京地裁で退けられています。

社会的影響とその他の論点

この事件は、医療機関における不正や無資格診療、そして行政の対応の遅れなど、様々な問題を浮き彫りにしました。特に、関係者が当時の厚生大臣を含む有力政治家へ献金していたことが発覚し、政治家が引責辞任するなど、政治的な影響も及びました。また、この事件を機に医療問題を巡るマスメディアの報道姿勢や、医療費適正化政策との関連性を指摘する見解も存在します。さらに、超音波診断技術の導入が病変発見率を上げ、結果的に手術数増加につながった可能性を指摘する意見もありましたが、専門家による鑑定では、画像診断の結果から見ても、手術の必要性は極めて低かったことが示されています。

富士見産婦人科病院事件は、多くの被害女性たちが声を上げ、長期にわたる法廷闘争や行政への働きかけを行った結果、日本の医療行政や患者の権利意識に大きな影響を与えた歴史的な事件として記憶されています。

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