富嶽百景 (北斎)

葛飾北斎『富嶽百景』：富士山への飽くなき情熱と画業の集大成

『富嶽百景』は、葛飾北斎が75歳を迎えた天保5年（1834年）から制作を始め、全102図、全3編からなる薄墨摺りの絵本です。北斎の富士山への深い愛情と、画業人生の集大成ともいえるこの作品は、緻密な描写と洗練された摺りの技術によって、他に類を見ない美しさを実現しています。

背景：富士山信仰と北斎の創作

古くから信仰の対象とされてきた富士山は、多くの芸術家に題材として愛されてきました。北斎も例外ではなく、文政初期（1818～1830年）から富士山への強い関心を抱き、数々の作品を描いています。例えば、文政6年（1823年）刊行の『今様櫛きん雛形』には、富士山を題材とした櫛の図案8図が収録されており、四季折々の富士山の姿を表現しています。

北斎の富士山への着想は、河村岷雪の『百富士』（1771年）などの先行作品にも影響を受けた可能性がありますが、北斎自身の独自の創造性と表現力は、それらとは一線を画すものです。美術史家の鈴木重三は、当時の富士山信仰の高まりが、北斎の富士山を主題とする作品制作の背景にあった可能性を指摘しています。また、北斎は『冨嶽三十六景』（1830年頃～）の大成功を経て、『富嶽百景』の制作に取り掛かったと推測されていますが、その制作時期や構想については諸説あります。

制作：細部にわたるこだわりと晩年の決意

『富嶽百景』は、全100図を収めることを想定して企画されました。下絵の制作時期は定かではありませんが、『冨嶽三十六景』の制作後であるという説や、『冨嶽三十六景』とほぼ同時期に制作されたとする説など、様々な見解があります。

北斎は『富嶽百景』の制作に並々ならぬ情熱を傾け、完成した初編の跋文には、これまでの画業を振り返りつつ、今後の決意が綴られています。跋文の中で、北斎はこれまでの作品を「取るに足らないもの」と断じ、今後の創作に強い意欲を示しています。この跋文は、北斎の最晩年の創作活動の始まりを告げるものと言えるでしょう。晩年の北斎は、錦絵の制作を減らし、絵本や絵手本の制作に傾注した後、肉筆画へと移行していきます。

彫りと摺り：卓越した技術の融合

『富嶽百景』の彫りは、複数の彫師が担当し、作品ごとに彫師の名前が記されています。江川仙太郎（江仙）が最も多くの作品を担当していますが、北斎は書簡の中で江川留吉を指名していたと伝えられています。留吉は彫師の統括的な立場にあったと考えられています。摺りについては、担当職人の詳細は不明です。

評価と影響：国内外での高い評価

『富嶽百景』は、日本国内では絵画そのものよりも、北斎の晩年の決意表明ともいえる跋文が注目を集めました。一方、海外では早くから高い評価を得ており、イギリスのディキンズやフランスのゴンクールなど、多くの芸術家や研究者から賞賛されました。

歌川広重は『富嶽百景』に刺激を受け、『富士見百図』を制作しています。広重は、北斎の作品が独創的な構成を重視しているのに対し、自身の作品は写実性を重視している点を強調しました。

『富嶽百景』は、北斎の富士山への飽くなき情熱と、類まれな表現力、そして画業人生の集大成を示す作品です。その精緻な描写と奥深い表現は、現代においても高い評価を受け続けています。

代表作例

海上の不二: 二編に収録。砕け散る波しぶきと千鳥の組み合わせが印象的な作品です。
七橋一覽の不二: 二編に収録。橋の下から富士山を眺める構図は、河村岷雪の作品に原点を見出すことができます。

参考文献

ここに挙げた参考文献以外にも、多くの書籍や論文が『富嶽百景』について論じています。これらの文献を参照することで、より深くこの作品について理解を深めることができるでしょう。

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