差延

差延(différance)：自己同一性と他者との関係性

ジャック・デリダによって提唱された「差延(différance)」は、自己同一性の成立に不可欠な、他者との関係性におけるズレや違いを意味する概念です。デリダは、何者かとして同定されうるもの、自己同一性が成立するためには、それ自身との完全な一致からのズレ、違い、逸脱、そして常に既にそこに先立っている他者との関係が不可欠だと主張しました。この関係性を示すために、デリダは「差延」という造語を用いています。

差延の論理：自己同一性の二重化

「AはAである」という同一性の判断においても、主語のAと述語のAは、少なくとも概念的には異なるものとして識別されます。つまり、同定においてすらAは二重化され、自己自身に対して差異化されなければなりません。この差異化こそが、自己同一性を可能にする根幹です。自己自身が差異化することで、初めて複数の「同じ」でありながら「別の」項として存在し、同定や自己同一性が成立するのです。

このことは、他のもののうちにあり、他のものによって考えられるのではない、自己充足した根本的で特権的な存在は、概念の世界においてさえ、副次的に構築された名目的概念に過ぎないことを意味します。

差延の再帰性と痕跡

差延は再帰的な性質を持ちます。この再帰を媒介する他項は、不在の形で存在し、自己の側に残された痕跡から遡及的に確認されます。しかし、この痕跡は、その不在の媒介項を前提とし、痕跡の刻まれた項が自己充足することを許しません。この原・痕跡、あるいは原・エクリチュールという関係性が、差延の重要な側面です。

différanceの表記と意味

フランス語の「différance」は、動詞「différer」（異なる、遅らせる、先延ばしにする）に由来します。「différer」の現在分詞形「différant」を名詞化したものであり、「差異」という意味に加え、「遅らせる」「先延ばしにする」といった時間的なずれの意味を含んでいます。デリダは、この二つの意味を意図的に重ね合わせ、能動態と受動態の間で宙吊りにされた、再帰的なニュアンスを持たせました。さらに、発音上「différence」（差異）と区別がつかない点も、声の次元ではなく、文（エクリチュール）の次元での差異を示唆しています。これは、音声中心主義への批判でもあります。

差延の前史：ヘーゲル、ニーチェ、ソシュール

差延の概念は、20世紀における差異についての哲学的な思考の流れの中に位置づけられます。ヘーゲルは、「AはAである」の同一性判断において、同一性と非同一性の両方が意味されていると指摘しました。このヘーゲルの弁証法的な差異の概念と、それに依拠した形而上学への批判が、20世紀に入って、ニーチェやソシュールらによって展開されました。

ニーチェは、意志の単一性を否定し、差異を価値、意志、力の観点から捉えました。ソシュールは、「言語には差異しかない」と述べ、記号の意味は他の記号との違いによってしか規定されないことを示しました。これらの思想は、形而上学的な概念、特に他の概念に依存しない根源的な観念への批判へと繋がります。

デリダにおける差延：時間性と遅れ

デリダはソシュールの差異のあり方を痕跡として捉え、時間的な遅れ、ずれを見出しました。言語において、ある語が何かを意味するとき、それは意味されているものの代わりに現れ、代理・代表・表象します。この代理は、不在の形で現前させることであり、意味のあるところには常に他への参照、他による媒介が働いています。この媒介には必然的にずれと遅れが孕まれます。

何かがあるものが同定できるということは、それが反復可能性を有していなければならないということです。繰り返されうる記号だけが、同定するものと同定されるものとの二つに二重化され、識別可能な二つのものだけが同定可能です。したがって、根源的な概念を考えたとしても、それが同一性を保ち、現前する限り、その手前に差異化の運動、差延が存在します。

しかし、デリダは「差異化」という表現には主語である何かの実体を想定させてしまう能動性を意味するとして留保しました。差延は効果、あるいは効果を生む作用ですが、主語や主体、原因は持ちません。

フッサール現象学との関係：絶対的な現在への批判

フッサール現象学は、経験される現象を意識に直接与えられたものだけに還元し、そこから現象を再構成しようとする試みでした。そのため、純粋かつ直接的に意識に与えられた現在（現前）が必要とされます。しかし、デリダは、意識は現在を純粋かつ直接的に経験しないとし、自己自身に直接的に意味が現前するという想定を批判します。「自分が-話すのを-聞く」という概念は、聞く自己と話す自己の差異、そして話される言葉と他の言葉との差異によって、直接性は汚染されていると指摘します。

デリダは、現在は過去によって不在の形で、つまりその痕跡の形で取りつかれており、過去に間接的に媒介されない直接的な現在はないと主張します。現在は過去との関係によってはじめて意味を為し、その自己充足性を失い、動的な時間性を帯びます。

ハイデッガーの存在論的差異との関係

ハイデッガーは、ものが存在するという出来事を、存在する対象として語りうるものとは異なるものと考え、この違いを存在論的差異と呼びました。デリダはこの存在論的差異を、存在するものに不在という形で取り憑く存在、痕跡として捉えます。存在はそれ自体としては決して現れませんが、対象化から不可避的に逃れる剰余として存在します。デリダは、この差異、存在するものとその存在との間のずれから、あらゆる同一者が前提として経なければならない内的な差異化の運動différanceを引き出します。存在論的差異は、存在という形式によって限定されて現れた姿として捉え直されます。しかし、différance は存在や現存在に先立っており、それよりも「年老いて」いるとされます。

結論

差延は、あらゆる記号、表現、概念、存在、同一者において、他への参照と他からの遅れ、他なるものの痕跡としての不在との関係、不可避で還元不可能な「ずれ」があらかじめ働いており、そうした何ものも根源的なものとして立てることができないという概念です。デリダの脱構築思想を理解する上で、差延は非常に重要な概念となっています。

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