弦楽四重奏曲第8番 (モーツァルト)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1773年に手掛けた弦楽四重奏曲第8番 ヘ長調 K. 168は、彼の創作期において重要な転換点を示す作品の一つです。この曲は、同年にウィーンで集中的に作曲された全6曲からなる『ウィーン四重奏曲』の最初に位置づけられており、『ウィーン四重奏曲第1番』とも称されています。

作曲の背景と『ウィーン四重奏曲』

モーツァルトは1773年の夏、7月14日から9月26日までウィーンに滞在しました。この期間中、彼は驚異的なペースで作曲を進め、特に弦楽四重奏の分野で顕著な成果を上げています。本作 K. 168を皮切りに、K. 169、K. 170、K. 171、K. 172、K. 173という合計6曲の弦楽四重奏曲が、わずか8月のうちに完成されました。これらの作品群は、作曲地であるウィーンにちなんで『ウィーン四重奏曲』という通称で知られています。

形式と様式の発展

『ウィーン四重奏曲』は、それ以前にミラノで作曲された6曲の『ミラノ四重奏曲』とは形式的な点で明確な違いを持っています。『ミラノ四重奏曲』が全て3楽章構成であったのに対し、『ウィーン四重奏曲』は全ての曲が4楽章構成で書かれています。これは、急-緩-舞曲-急という楽章配置を持ち、第2楽章または第3楽章にメヌエットを置くという、典型的な古典派の弦楽四重奏曲の形式を採用したことを意味します。

また、この時期のモーツァルトの作品には、構成手法において著しい進歩が見られます。特にフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの同時期の作品、例えば『弦楽四重奏曲集 作品17』や『太陽四重奏曲 作品20』からの影響が強く認められます。ハイドンが開拓した弦楽四重奏における対位法的な書法や楽章間の有機的な関連性が、モーツァルトの作品にも反映され、より緻密で洗練された音楽語法へと発展していく様子がうかがえます。

楽曲構成

弦楽四重奏曲第8番は全4楽章で構成されており、標準的な演奏時間は約13分です。

1. 第1楽章 アレグロ (Allegro)
ヘ長調、4分の4拍子、ソナタ形式。力強く開始される楽章で、古典派ソナタ形式の定型に沿って展開されます。この楽章に付された速度標語は、モーツァルト自身の筆によるものではなく、父レオポルトによって書き加えられたものです。

2. 第2楽章 アンダンテ (Andante)
ヘ短調、4分の3拍子、二部形式。この楽章は、憂鬱なヘ短調で書かれており、深い感情が表現されています。特に注目すべきは、この楽章の主要主題が、ハイドンの同時期の傑作である『弦楽四重奏曲第23番（旧第35番）ヘ短調』（Hob. III:35, 作品20-5）の終楽章から引用されている点です。これは、当時の作曲家間での影響関係や敬意を示す興味深い例と言えます。

3. 第3楽章 メヌエット - トリオ (Menuetto - Trio)
ヘ長調、4分の3拍子。明るく優雅なメヌエットと、対照的なトリオからなる楽章です。典型的な古典派の舞曲楽章として、形式的な安定感を持っています。

4. 第4楽章 アレグロ (Allegro)
ヘ長調、4分の2拍子。この楽章は、快活な主題と、対位法的な技法、特にフーガを用いた部分が特徴です。終楽章にフーガを取り入れる手法は、ハイドンの作品20にも見られるものであり、モーツァルトが新しい書法を意欲的に試みていることが分かります。軽快でありながらも構成的な緻密さを持つ楽章で、曲を華やかに締めくくります。第1楽章と同様、この楽章の速度標語も父レオポルトによるものです。

この第8番は、『ウィーン四重奏曲』の出発点として、モーツァルトが弦楽四重奏というジャンルにおいて、より深遠で複雑な音楽表現へと歩み始めたことを示す重要な作品と言えるでしょう。ハイドンの影響を受けつつも、自身の音楽語法を確立していく過渡期の姿が鮮やかに描き出されています。

もう一度検索