快楽の園

ヒエロニムス・ボス「快楽の園」

『快楽の園』（かいらくのその、蘭: Tuin der lusten、西: El jardín de las delicias）は、初期フランドル派の画家ヒエロニムス・ボスが、1490年から1510年頃にかけて制作した三連祭壇画です。この作品は、ボスの作品の中でも最も有名かつ大規模なもので、スペインのマドリードにあるプラド美術館に所蔵されています。その複雑な寓意と生き生きとした表現は、他のボスの作品には見られない独特なものです。

作品概要

形式

油彩で描かれたこの三連祭壇画は、両翼を閉じることで中央パネルを完全に覆い隠す構造になっています。両翼の裏側には、天地創造の地球がグリザイユ（灰色画法）で描かれています。三枚のパネルは、左翼に神がアダムにイヴを贈る場面、中央パネルに裸の人々や空想上の動物が織りなす猥雑な情景、右翼に地獄で責め苦を受ける罪人たちの様子を描いています。

解釈

美術史家や評論家は、この作品を誘惑からの危険に対する警告と解釈することが多い一方で、中央パネルに描かれた象徴的な意味については長年にわたって議論が続いています。道徳的な警告を描いたとする説と、失楽園を描いたとする説があり、アメリカ人作家のピーター・S・ビーグルは「不道徳で享楽的な雰囲気に満ちあふれ、観る者全てを窃視症にするかのような性的狂乱が描かれている」と評しています。

ボスは生涯で3点の大きな三連祭壇画を制作しましたが、どれも特定の歴史や信仰に直接関連するテーマを扱ったものではありません。当時の三連祭壇画は、左翼、中央パネル、右翼へと物語が展開し、両翼にはエデンと最後の審判が描かれるのが一般的でした。しかし、『快楽の園』が教会の装飾として制作されたのかは不明であり、その過激な内容から、一般信徒の依頼で制作された可能性が高いとされています。

来歴

制作年代

『快楽の園』の正確な制作年は不明ですが、20世紀の美術史家の間では、1503年から1504年頃、あるいはそれ以降に描かれたという見方が有力です。年輪年代学の調査では、使用されたオーク板が1460年から1466年の間に切り出されたものであることが判明しました。また、作品にはパイナップルが描かれていることから、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸発見後に描かれたとする説もあります。しかし、ベルナール・ヴァルメは、描かれているのはアフリカの産物であると主張し、この絵画が1481年頃にナッサウ=ヴィアンデン伯エンゲルベルト2世の依頼で制作されたとしました。

初期の記録

この作品が最初に記録に登場するのは、1517年のアントーニオ・デ・ベアティスの記述で、ブリュッセルのナッサウ伯爵邸宅に飾られていたとされています。1605年の記録には『イチゴの絵画』と記されており、これは中央パネルに描かれたマドロナの木に由来します。また、スペインの著述家は『色欲』と表現しました。この作品は、ナッサウ伯爵邸に飾られていたことで多くの人々の目に触れ、ボスの名声がヨーロッパ中に広まりました。

その後の変遷

ボスの没後、多くの贋作や複製が作られ、その人気の高さを示しています。依頼主は、当時ネーデルラント総督だったナッサウ=ヴィアンデン伯エンゲルベルト2世か、その後のヘンドリック3世・ファン・ナッサウ＝ブレダである可能性があります。1568年にアルバ公フェルナンドがこの作品を没収し、スペインに持ち去り、1591年にはフェリペ2世が買い取り、1593年にエル・エスコリアル修道院に奉納されました。1939年にプラド美術館に移譲され、現在に至っています。

内容

外面

両翼を閉じると、グリザイユで描かれた地球が出現します。これは、植物が創造され始めた原初の地球を描いたものであり、キリスト教の天地創造における光と創造の瞬間を表現している可能性があります。画面上部には神の姿が描かれ、その様子は「自身が創造した世界がすでに自身で制御できる範囲を超えてしまっている」ため、ためらいがちで不機嫌に見えます。

左翼パネル

左翼には、地上の楽園、あるいはエデンの園が描かれています。神がアダムにイヴをめあわせる場面が中心に描かれ、様々な動物や植物が見られます。しかし、食肉獣が獲物をくわえ、ライオンが獲物を襲うなど、平和なだけではない側面も描かれています。中景には、禁断の木の実を象徴する蛇が巻き付いた木があります。

中央パネル

中央パネルは、裸の男女が群れをなし、様々な象徴や寓意に満ちた現世の快楽を表現したものです。前景には、巨大なムール貝を担いだ男や、赤いフクロウをかぶって踊る人々など、多様な行動をとる人々が描かれています。中景では、男女が動物に乗って池を囲むように動き、遠景には奇妙なオブジェや空を飛ぶ動物や人が描かれています。これらの描写は、性的な象徴や快楽を暗示していると解釈されています。

右翼パネル

右翼には、悪魔が様々な責め苦を与える地獄が描かれています。楽器が責め道具として使われていることから、「音楽地獄」とも呼ばれます。中央には卵の殻を胴体とする怪物「樹幹人間」が立ち、その周囲では悪魔たちが亡者を責め立てています。鳥の顔をした怪物「地獄の王子」や、尻の鏡を向けられる女など、様々な罰の様子が描かれています。背景には火災と戦闘の様子も描かれており、地獄の恐ろしさを表しています。

作品の意味

中央パネルの解釈

中央パネルの主題については諸説ありますが、一般的には、七つの大罪のうちの色欲の描写であり、罪を犯すことを戒める意味を持つと考えられています。しかし、快楽の象徴的な描写、堕落した世界、あるいはアダム派の世界を描いたものなど、様々な解釈が存在します。

シュルレアリスムとの関連

ボスの描く怪奇幻想的な世界は、20世紀のシュルレアリスムに影響を与え、ジョアン・ミロやサルバドール・ダリなどの画家たちに多大な影響を与えました。

後世への影響

芸術家への影響

ボスの作品は、ピーテル・ブリューゲル、ジュゼッペ・アルチンボルド、ダヴィド・テニールスなど、多くの芸術家に影響を与えました。特に、ブリューゲルは『快楽の園』の右翼から多くの要素を自身の作品に取り入れました。

近現代の芸術

20世紀に入ると、シュルレアリスムの画家たちがボスの作品に新たな興味を示し、その陶酔的な心象絵画や奔放な創造性を高く評価しました。ボスの描く世界は、近現代の芸術に通じる要素を持つと考えられています。

その他

プラド美術館での展示

2009年、プラド美術館は『快楽の園』を所蔵する最重要絵画の一つに選び、高解像度でGoogle Earthに登録しました。

メディアでの紹介

2021年には、NHKのアニメーション番組『びじゅチューン!』で『快楽の園』を題材にした作品が放送されました。

『快楽の園』は、その複雑な寓意と独特な世界観で、時代を超えて多くの人々を魅了し続けています。

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