性的流動性

性的流動性（セクシュアル・フルイディティ）

性的流動性（セクシュアル・フルイディティ、英: Sexual fluidity）とは、個人のセクシュアリティや性的アイデンティティが、時間の経過とともに一度またはそれ以上にわたって変化する現象を指す言葉です。英語の「フルイディティ（fluidity）」は「流動性」や「液体のような性質」を意味し、セクシュアリティが固定されたものではなく、文字通り「流動的に」動きうる性質を示唆しています。日本では「性の可変性」と訳されることもあります。

セクシュアリティ、特に性的指向が、個人の人生を通して安定しているのか、それとも流動的に変化するのかという問いは、現在も活発な議論の対象となっています。科学的な見解では、基本的に性的指向は個人の意志で自由に選択できるものではないとされています。一般的には、性的指向は一度形成されると生涯安定していると考えられがちです。

しかし一方で、性的アイデンティティ（自身の性的指向をどう認識し、表明するかというアイデンティティ。生物学的な性や性同一性とは異なる概念です）は、個人の生涯を通じて変化する可能性があることが指摘されています。また、生物学的な性別、実際の性行動、そして本人が認識する性的アイデンティティが必ずしも常に一致するとは限りません。性的指向がどのように発達するのか、その正確なメカニズムについては依然として研究途上であり、遺伝的要因、ホルモン的要因、そして社会的・文化的影響など、複雑な要素の相互作用が関わっていると考えられています。

性的流動性の議論に関連して、性的指向や性的欲望は生まれつきのものであり、生涯不変であると信じる立場は本質主義と呼ばれます。大規模な追跡調査を行った研究（Savin-Williams, Joyner and Rieger, 2012など）によれば、確かに性的アイデンティティは変化するケースよりも安定しているケースの方が一般的であり、特に男性はその傾向が強いという結果が出ています。

「セクシュアル・フルイディティ」という言葉は、アメリカの心理学者リサ・ダイアモンド氏によって提唱されました。彼女の研究、特に女性のセクシュアリティに関するものが、この概念を広く知らしめる契機となりました。

しばしば、性的指向（sexual orientation）と、性的指向に関するアイデンティティ（sexual orientation identity）は混同されがちですが、この二つを明確に区別することが、セクシュアリティの流動性を理解する上で非常に重要になります。性的指向に関するアイデンティティは、個人のライフステージや経験によって変化する可能性があり、それが必ずしもその人の生物学的な性別、実際の性行動、あるいは生得的な性的指向と一致するとは限りません。

カナダの依存と精神的健康センター（CAMH）やアメリカ精神医学会は、性的指向は生得的で固定的な人もいる一方、時間とともに流動したり変化したりする人もいると述べています。一方、アメリカ心理学会（APA）は、性的指向（生得的なもの）と性的アイデンティティ（人生のどの時点でも変化しうるもの）を区別しています。科学者やメンタルヘルスの専門家の間では、性的指向は個人の選択によって自由に変更できるものではないという見解が一般的です。

アメリカ心理学会は、性的指向は「環境的、認知的、生物学的因子の複雑な相互作用の結果である可能性が最も高く」、幼少期に形成され、遺伝的または先天的なホルモン因子などの生物学的要因が重要な役割を果たすと説明しています。その上で、「性的指向に関するアイデンティティ――性的指向そのものではない――は、精神療法、支援団体、およびライフイベントを通じて変化しうる」可能性に言及しています。アメリカ精神医学会は、自身の性的指向を自覚するタイミングは人それぞれ異なるとし、同性愛そのものを精神障害とみなしたり、個人の性的指向を変更しようとしたりする精神医学的治療に対しては反対の立場をとっています（ただし、同性愛を肯定的に捉える心理療法は行われています）。

リサ・ダイアモンド氏は、自身の著書『性的流動性』（Sexual Fluidity, 2009年）の中で、特に女性のセクシュアリティに焦点を当て、従来の「発達段階」や「否認」といった枠組みでは捉えきれない現実、そして性的欲望に関する伝統的な語彙の不十分さを指摘しました。彼女は10年以上にわたる非異性愛女性の研究を通じて、多くの人がバイセクシュアルという言葉だけでは自身のセクシュアリティの多様性や変化を表現しきれない実情を発見しました。この経験から、ダイアモンド氏は「同性愛の認識を拡張する」必要性を訴えています。

ダイアモンド氏は、レズビアンやバイセクシュアルの女性の性的アイデンティティに関する研究をレビューし、従来の性的指向を固定的で早期に発達する特性とみなすモデルとは異なる、「同性愛の変化と流動性」を発見したと述べています。彼女は、性的流動性は女性の非異性愛的なセクシュアリティにより関連が深い現象だと考えています。ダイアモンド氏によれば、男性の性的指向は、特定の性別への性的興奮や刺激を向ける安定した「エロティックな羅針盤」として機能するように見えるのに対し、女性の性的指向は必ずしもそうは機能しないようです。このような観察から、女性の同性愛は生涯の様々な段階で、男性の同性愛とは異なる形で現れることがあるとしています。

性的流動性を研究する学者の中には、自身がLGBTQ+コミュニティの一員である人もいます（例：リサ・ダイアモンド氏、Ritch C. Savin-Williams氏）。また、自身の性的アイデンティティが変化した経験を持つ人が、LGBTQ+コミュニティの中から見られることもあります。例えば、ニューヨーク市長（当時）のビル・デブラシオ氏の妻であるシャーレイン・マックレイ氏は、1979年にレズビアンであることをカミングアウトするエッセーを執筆しましたが、その34年後に男性と結婚したことについて述べています。彼女は自身のセクシュアリティは単なるラベルでは括れないとし、特定の男性（デブラシオ氏）に惹かれたのであって、男性全体に惹かれたわけではないと説明しています。

性的流動性に関する議論は女性のセクシュアリティを中心に進められてきましたが、男性の間での性的流動性の現れ方や、バイセクシュアル男性における性的興奮の変動など、男性のセクシュアリティにおける流動性に関する論点も存在し、研究が進められています。

性的流動性という概念は、セクシュアリティを固定的なカテゴリーに当てはめるのではなく、個人の多様で変化しうる経験をより適切に理解するための視点を提供しています。

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