悪は存在しない

『悪は存在しない』は、濱口竜介監督が2023年に手掛けた日本映画です。前作『ドライブ・マイ・カー』で音楽を担当した石橋英子からの依頼がきっかけとなり、ライブパフォーマンス用の映像制作から発展しました。当初は抽象的なイメージ映像が想定されていたものの、物語性のある映像へと変更され、劇映画として制作されることとなりました。

物語の舞台は、長野県の山奥にある小さな集落・水挽町。美しい森と清らかな水に囲まれたこの場所で、人々は静かに暮らしています。しかし、東京の芸能事務所が運営する企業が、グランピング施設の建設を計画したことで、集落の日常は一変します。企業側は観光客誘致による経済効果を強調しますが、その計画には自然環境への配慮が欠けており、住民たちは水質汚染や山火事のリスクを懸念し、計画に反対します。

住民説明会では、企業側の担当者と集落の人々が激しく議論を交わします。都会から移住してきた住民たちは、自然の恵みを大切にしたいという強い思いを持ち、企業側のずさんな計画を批判します。しかし、企業側は助成金目当てで計画を強引に進めようとし、事態は膠着状態に陥ります。

物語は、集落で暮らす男・巧とその娘・花を中心に展開します。巧は、開発計画に直接的な言葉で反対するのではなく、自然との共生を体現するような行動を示し、高橋や黛といった企業側の人間たちの心に変化をもたらそうとします。しかし、企業側の姿勢は変わらず、物語は予期せぬ結末へと進みます。

この映画は、自然と人間、開発と環境保護、そして人間社会における「悪」とは何かといった、現代社会が抱える様々な問題提起をしています。また、濱口監督は、観客に明確な答えを提示するのではなく、物語の結末を曖昧にすることで、観る者に深く考えさせ、多様な解釈を可能にする余韻を残しました。この点が、映画公開後、多くの観客や評論家から注目を集め、様々な議論を生み出す要因となっています。

撮影は長野県諏訪地域を中心に行われ、自然の美しさと共に、そこに生きる人々の暮らしが丁寧に描かれています。また、地元の人々から得た知識や経験が、物語にリアリティを与え、観客を映画の世界に引き込みます。キャスティングにおいては、大美賀均や西川玲といった、演技経験の少ない俳優が起用され、自然な演技が物語に深みを与えています。

映画はヴェネツィア国際映画祭での銀獅子賞受賞を皮切りに、各地の映画祭で高い評価を受けました。また、イギリスの映画批評誌『Sight & Sound』では、濱口監督の特集が組まれ、彼の独自の映画言語が高く評価されています。一方で、エンディングの解釈については、様々な意見が出ており、観客の想像力をかき立てる作品となっています。

『悪は存在しない』は、同監督の『GIFT』という映像作品と対になっています。『GIFT』は、同じ撮影素材を使いながら、物語性を排除した実験的な作品で、石橋英子の音楽と共に、より抽象的な世界を描いています。濱口監督は『GIFT』の編集作業から得たインスピレーションを、『悪は存在しない』に活かしたと述べており、両作品を比較することで、より深く作品を理解することができます。

この映画は、単なるエンターテイメント作品にとどまらず、現代社会が抱える問題を鋭く提起し、観る者に深い思考を促す作品として、長く記憶に残るでしょう。


主なキャストは以下の通りです。

安村巧：大美賀均
安村花：西川玲
高橋啓介：小坂竜士
黛ゆう子：渋谷采郁

監督・脚本は濱口竜介、音楽は石橋英子、企画は濱口竜介、石橋英子が担当しています。製作はFictiveとNeopaによる共同製作で、世界販売はドイツのM-アピール社、北米配給はアメリカのヤヌス・フィルムが担当しました。撮影はドルビー・デジタル、アスペクト比1.66:1で行われました。


受賞歴としては、以下のようなものがあります。

第80回ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞（審査員大賞）、国際映画批評家連盟賞
第71回サン・セバスティアン国際映画祭 Lurraグリーンピース賞
第67回BFI ロンドン映画祭 作品賞
第16回アジア太平洋映画賞 審査員特別賞
* 第17回アジア・フィルム・アワード 作品賞、音楽賞


『悪は存在しない』は、自然と人間の関係、社会における倫理観、そして人間の深層心理といった、様々なテーマを内包した、複雑で多層的な作品です。この作品は、観る人によって異なる解釈を生み出し、深く考察するきっかけとなるでしょう。

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