慚

慚（ざん）（梵: hrī）は、仏教において重要な位置を占める善の一つです。サンスクリット語のhrīに由来し、人間の内面における倫理的な規範や自己省察の心を表します。自己の言動を深く顧み、過失を恥じる内省的な心の働きとして理解されることが多いですが、同時に他者の優れた徳に対して敬意を払う心としても説かれます。この「慚」という概念は、仏教徒が道を歩む上で欠かせない、自己を律するための根源的な力と考えられています。

仏教における「慚」の意義

仏教では、「慚」は単に失敗を恥じるという表面的な感情にとどまりません。それは、自己の内面を深く観察し、自身の振る舞いや心のあり方が教えに照らして適切であるかを常に問う、主体的な倫理意識です。自己の過ちや不完全さを認識し、それに対して恥の念を抱くことによって、人は悪行を抑制し、善い行いへと向かう原動力を得ます。この自己の内省に基づく恥の心こそが、「慚」の本質的な側面の一つとされています。また、釈迦牟尼仏をはじめとする聖者や、道徳的に優れた人々の徳を敬い、その模範に倣おうとする心も「慚」に含まれると説かれることがあります。

「慚愧」という熟語

「慚」は、「愧（き）」と組み合わされて「慚愧（ざんき）」という熟語として使われることが非常に多いです。この「慚愧」は、自己の罪過や不徳に対して深く恥じ入る心の状態を指し、仏教における最も基本的な善行の一つと見なされます。この熟語が示すように、「慚」と「愧」は密接に関連していますが、仏教の教えの中ではそれぞれに独自の側面があることが説かれています。

「慚」と「愧」の違い（涅槃経の説示）

大乗仏教の重要な経典である『涅槃経』には、「慚」と「愧」に関する詳細な区別が説かれています。それによれば、「慚」は「みづから罪を作らず」、すなわち自らが悪行を行うことを内面から抑制する働きであり、また「内にみづから羞恥す」「人に羞づ」と表現されます。これは、自己の内省に基づいて自身の過失や至らなさを恥じる心であり、特に「人」すなわち世間や他者の目、あるいは社会的な規範や倫理に基づいて自己を律する側面が強調されています。一方、「愧」は「他を教へてなさしめず」、つまり他者が悪行を行うのを止めさせようとする働きであり、また「発露して人に向かう」「天に羞づ」と説かれます。これは、自己の恥の心を外に向けて表明したり、他者の悪行を戒めたりする側面、さらには「天」すなわち仏や菩薩、あるいは普遍的な真理や道理、因果の法則といったより高次の存在や規範に対して恥じる心が強調されています。このように、涅槃経は「慚」を自己の内省と世間的な規範への意識、そして「愧」を他者への働きかけと普遍的な真理への意識に関連づけ、両者の役割の違いを明確にしています。この二つの心が揃ってこそ、真の自己規律が確立されると考えられます。

無慚愧について

『涅槃経』ではさらに、この「慚」と「愧」の心を持たない状態、すなわち「無慚愧（むざんき）」である者は「名づけて人とせず、名づけて畜生とす」という厳しい言葉で表現されています。これは、慚愧の心こそが人間を人間たらしめる倫理的な基盤であり、それがなければ人は欲望や衝動のままに振る舞い、人間としての尊厳を失い、倫理的な観点からは動物と同然であるという仏教の強いメッセージを示しています。慚愧は、人間が自らの行為に責任を持ち、精神的な向上を目指すための出発点となる心なのです。

ヒンドゥー教における位置づけ

仏教だけでなく、インドの伝統思想においても「慚」に相当する概念は重要視されています。ヒンドゥー教においては、「慚」（Hrī）はヨーガの実践における倫理的規範の一つである「ニヤマ（Niyama）」、すなわち自己修養の十戒の一つに数えられています。これは、自己の不適切な行いを恥じ、品位を保つことの重要性が、仏教と共通するインド思想の倫理観の中で認識されていたことを示しています。

まとめ

「慚」は、自己の内面を深く見つめ、過失を恥じる心であり、同時に他者の徳を敬う心でもあります。「愧」と合わせて「慚愧」として、悪を抑制し善行へと導く仏教の基本的な善心として位置づけられています。特に涅槃経における両者の詳細な区別は、自己規律の多面性を示唆しており、慚愧の心を持つことの重要性は人間性の根幹に関わるテーマとして強調されています。この慚の思想は、仏教のみならず、広範なインドの精神文化において共有される倫理観の一つと言えるでしょう。

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