授業書

「授業書（じゅぎょうしょ）」とは、1963年に物理学者の板倉聖宣（1930-2018）によって提唱された仮説実験授業において用いられる、児童・生徒向けの特殊な教材テキストを指します。これは単なる教科書ではなく、授業の進め方、学習内容、生徒の思考を促す問題、記録のためのノート、そして読み物といった複数の機能が一体となった印刷物です。授業書最大の特徴は、そこに示された指示に沿って授業を進めることで、授業者の経験や技量に左右されず、誰でも一定の教育効果を上げられるよう緻密に設計されている点にあります。板倉は、優れた授業には個々の教師や生徒を超えた普遍的な法則性が存在すると考え、この授業論を基に授業書を作成しました。

授業書の成立には、科学的な認識が「仮説」や「予想」を立て、意図的な「実験」を行うことによって得られるという考え方や、個人的な検証を超えて社会的に共有される認識を目指すという哲学が反映されています。問題の配列や予想の選択肢配置にその思想が見られます。授業書は仮説実験授業の中心的な概念であり、その存在があって初めて仮説実験授業の考え方が現実のものとなりました。これにより、授業研究は再現性・検証可能性を持つ実験科学の手法として確立されたのです。

授業書は主に「問題」を中心とした構成要素から成り立ちます。授業の導入として過去の経験や記憶を尋ねる「質問」、生徒一人ひとりが予想を立て、考え、討論し、実験で真偽を確かめることを要求する「問題」が核となります。「問題」には通常、生徒が選択肢から一つを選ぶ形式の「予想」が付随しており、これは直感的・常識的な認識と科学的認識が対立するように工夫されています。予想発表後の「討論」は、単に考えを出し合うだけでなく、積極的に理由を述べ合ったりと、問題によってその深さが指示されます。「実験」は予想や討論で生まれた対立意見のどちらが正しいかを明確にすることが目的であり、必ずしも高い精度は求められず、教師によるデモンストレーション実験が多く行われます。

さらに、授業書には学習した原理や法則がどれほど有用かを知らせ、生徒の興味関心を高めるための「新しい科学の言葉」「お話」「読み物」が含まれます。知識や技能の習熟を目指す「練習問題」、そして、全ての生徒に必須ではなく、自発的な研究意欲を促すための「研究問題」といった要素も配置されることがあります。

授業書で教える内容は、一度見たり実験したりするだけで理解できるような特殊な知識ではなく、幅広い事象に適用できる基本的・一般的な科学的概念や法則です。また、授業自体が生徒にとって知的興味を刺激され、楽しいものであることも重要な要件とされています。授業書の利用にあたっては、仮説実験授業の運営法に従い、予習はさせず、教師は生徒が問題の意味を理解し、自由に意見や予想を述べられる雰囲気づくり、実験結果が明確に共有されるよう配慮することが求められます。

仮説実験授業以前にも、生徒に課題を与えて解答させる形式のテキストは存在しました。戦後の「理科ノート方式」は、問題に対して予想を立て、発表・討論し、実験するという流れが仮説実験授業と類似しており、子供の直感的認識を利用しようとする考え方も見られました。板倉聖宣もその示唆を受けたことを認めていますが、「理科ノート方式」は授業研究の手段に留まり、毎日の授業手段としては確立されなかった点を批判しています。

「授業書」という言葉と概念は、板倉が仮説実験授業の研究を進める中で生まれました。当初は「テキスト」や「授業プラン」などと呼ばれていましたが、既存の教科書やテキストとは形態も機能も著しく異なる、授業自体に課題と具体的な指示を与え、進行を規定する革新的なものであることを明確にするため、教科書史研究を踏まえ1965年に「授業書」という言葉が創り出されました。これは、これまでにない新しい概念を的確に表現するための「発明」でした。

仮説実験授業の理論が確立し、実践が積み重ねられる中で、物理学だけでなく、原子論、生物学、地学など多様な分野の授業書が開発されました。これは、授業の普遍的な法則性を具体的な形にした「授業書」と、「授業書通りに進めれば子供も授業者も楽しい授業になる」という「授業書概念」が確立された結果です。

板倉は、教育内容と方法が一体として十分に研究され、「本当に楽しい授業ができる」と保証できるものだけを「授業書」として公表する原則を重視しました。研究段階のものは「授業書案」として区別しています。また、授業書の内容が安易に流布・盗用されることを防ぎ、授業での「自分の頭を使う場」を維持するために、著作権の保護にも力を入れました。仮説実験授業研究会は、授業書の購入者を限定したり、内容の公表に際しては了承を得る慣例を作ったりしました。過去には大手出版社による授業書の盗用事件も発生しましたが、訴訟の結果、研究会の著作権が認められ賠償金が支払われました。この事件は、教育研究分野における著作権保護の意識の低さを浮き彫りにしました。

1970年代からは、仮説実験授業研究会以外でも、仮説実験授業の成果に着想を得た「授業書方式」と呼ばれる教育研究の手法が見られるようになりました。社会科、保健、物理、生活科学など、様々な分野でテキストが作成され、授業研究が進められました。「問題→予想→討論→説明」といった仮説実験授業の流れを取り入れたものが多いですが、中には概念や法則の適用過程が見られないなど、仮説実験授業の授業書とは異なる性質を持つものもありました。板倉自身は、こうした「授業書方式」の安易な流行が、授業書という言葉の信用を損なう可能性を懸念していました。しかし、「授業書方式」は、授業の内容と方法を一体として研究を進めるという点で、従来の教育研究が抱えていた「具体的な授業での実現方法の欠如」という課題を乗り越えたという評価も存在します。

このように、「授業書」は仮説実験授業の中核をなし、科学教育の実践とその科学的研究方法に大きな影響を与えた独自の教材形式であり概念です。

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