散歩の日々

つげ義春『散歩の日々』：漫画家の日常と、300円の行方

1984年6月、漫画家・つげ義春は体調不良の中、家族と共に伊豆への旅行を過ごしていました。この旅行中、3年ぶりに新作を発表することとなります。それは、雑誌『COMICばく』に掲載された24頁の短編漫画、『散歩の日々』です。

この作品は、仕事がなく暇を持て余す漫画家の退屈な日常を描いています。主人公は中年男性で、ストイックな生き方をしていますが、顔は従来のつげ作品とは異なり、静かで端正な印象です。権藤晋氏は、この主人公の表情を漫画的というよりは文学的と評しています。つげ自身は当初、中年男性として描くつもりでしたが、作画を進めるうちに顔が若返り、妻の顔も想定よりも若くなってしまいました。これは、当時の漫画界において、特に女性の中年像が受け入れられにくい風潮があったため、妻を可愛く描く必要性があったためだと語っています。

主人公の日常は、野川沿いをG寺まで散歩することです。ある日、神社で賭け事に参加した主人公は、持っていた300円を失ってしまいます。ジュースを買ってあげたい子供にもそれをできず、彼は古本屋へ行き、夜祭りの焼そば屋の手伝いをします。そして、妻子が盆踊りに出かけた隙に、売上金から300円をくすねてしまうのです。この神社は虎狛神社がモデルで、野川沿いの小道が散歩コースだったとされています。

物語は淡々と進んでいき、一人称の視点で描かれることで、読者に主人公の物静かな内面を深く感じさせます。この作品には、男の子が登場するのも特徴的です。また、最後に300円を盗むというシーンがあるのは、淡々とした日常描写に変化をつけるための工夫であり、つげ自身も最後まで入れるかどうか迷ったと言っています。

『散歩の日々』には、続編の構想がありました。出張散髪屋を主人公が訪ね、親しくなったことから散髪を依頼する話です。散髪は庭で行われ、坊主頭の主人公には椎の実が落ちてくるという、独特のムードを持つ話です。しかし、『COMICばく』の連載が忙しくなったことや、『無能の人』へと創作意欲が傾倒していったことから、この続編は実現しませんでした。

『散歩の日々』は1998年にテレビドラマ化され、『つげ義春ワールド』の一環として放送されました。監督は長尾直樹、豊川悦司が主人公を演じました。ドラマでは、売れない漫画家の日常と、300円を失う出来事、そしてそこから始まる出来事が描かれています。

『COMICばく』の編集長であった夜久弘氏は、作中に登場するH君が、つげ義春と同じ町内に住む畑中純氏ではないかと推測しました。夜久氏は畑中氏のイラストを多く見ており、その独特の表現力に感銘を受けていたとされています。

『散歩の日々』は、つげ義春の代表作の一つであり、彼の内面世界を深く覗き込める作品と言えるでしょう。日常の些細な出来事の中に、人間の弱さや、そして一抹のユーモアを見出すつげ義春の才能が凝縮されています。 作品からは、当時つげ義春が抱えていたノイローゼや、変化を嫌悪し静かに生きたいという個人的な願望が感じられます。そして、それらの感情が、作品に独特の静謐さと奥行きを与えていると言えるでしょう。 300円という小さな金額の消失が、物語全体に暗い影を落としつつも、どこかユーモラスな雰囲気を醸し出している点が興味深いです。 作品は一見平凡な日常を描いていますが、その奥には複雑な人間の感情が潜んでいることに気づかされます。 静かで淡々とした語り口の中にも、読者の心を強く掴む魅力が詰まった、つげ義春の代表作と言えるでしょう。

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