棒になった男
安部公房の代表的な戯曲『棒になった男』は、1969年に発表された三つの短編戯曲から成るオムニバス作品です。
「鞄」「時の崖」「棒になった男」と題された各景は、それぞれ人間の「誕生」「過程」「死」という一生の段階を象徴的に描き出しています。特に、各景で中心となる存在が、人間でありながらも「鞄」「ボクサー」「棒」という特異な姿で描かれる点が特徴的です。
これらの作品は、もともと独立した小説やラジオドラマとして構想され、後に戯曲化されたものが組み合わされています。第一景「鞄」はラジオドラマ『男たち』（1968年）から、第二景「時の崖」はラジオドラマ『チャンピオン』（1963年）を経て小説化された『時の崖』（1964年）から、第三景「棒になった男」は小説『棒』（1955年）のラジオドラマ版（1957年）から派生しています。
興味深いのは、これらが一冊の戯曲集としてまとめられた際の構成順序が、元となった作品が生まれた時系列や、安部自身がこれらを構想した順序とは逆になっていることです。安部公房は、これらの景を当初から一本の作品として計画していたわけではないが、組み合わせを意識した際には、それが極めて自然で必然的なものとして感じられたと語っています。
安部公房は、この戯曲全体を貫く重要な仕掛けとして、各景で「鞄」「ボクサー」「棒」という異なる役割を演じる俳優を、必ず同一人物にすることを指定しました。これにより、一見バラバラに見える三つの物語が内面的に結びつき、作品に隠された主題が浮かび上がる「鎖の役割」を果たすと考えたのです。
作品全体の狙いについては、「お化け」が登場する現代の状況をそのまま舞台に映し出し、観客自身がそこに自己の「実像」を見るような「鏡」としての機能を意図したと説明しています。これは、観客と直接対話するわけではないが、一種の「対話劇」として成り立っていると言えるでしょう。
各景のあらすじと、そこで描かれる人間の姿は以下の通りです。
第一景「鞄」: 新婚の女性とその友人の会話を中心に展開します。物語は、女性が夫の持ち物である古い旅行鞄の中身を友人に見てもらおうとする場面から始まります。その鞄からは不審な物音が聞こえ、夫は「先祖」が入っていると言う。鞄の中身を恐れる女性と、それを開けさせようとする友人の間の緊張感が描かれます。人間が「鞄」に変容するという設定を通して、他者との関係性や、見えないもの・理解不能なものに対する人間の心理を探る作品です。ここでは人間が「誕生」し、まだ自己が確立されていない不安定な状態が示唆されます。
第二景「時の崖」: 没落寸前のボクサーが、試合直前の心境からダウンするまでの過程を独白形式で語ります。会社員として働きながらボクシングを続ける彼の内面を通して、人生における挑戦、時間の経過、そして避けられない敗北といったテーマが浮き彫りにされます。ここでは「ボクサー」という存在が、困難な「過程」を生きる人間の象徴として描かれます。安部自身、この作品に関連して、勝利ではなく敗北を運命づけられているとしても、その過程にある束の間の輝きを目指して闘い続ける生があり得る、むしろそれが生の「本質」かもしれないと述べています。
* 第三景「棒になった男」: デパートの屋上から落下し、一本の「棒」になってしまった男の物語。その棒は、地獄からの使者である男女によって発見されます。彼らは棒になった男を「罪なき人々」すなわち「棒の森」の一部として分類し、排水溝に放置しようとする。地獄の使者たちの会話を通して、人間が社会システムの中でいかに道具化され、アイデンティティを失っていくかが描かれます。この景は、現代社会における人間の「死」あるいは「存在の終焉」を象徴し、周囲を指差しながら「君をとりまく、この棒の森……」と語る地獄の男の言葉は、観客自身への強烈な問いかけとなります。
『棒になった男』は、一貫して現代社会に生きる人間の実存的な問題、特に疎外や孤独、自己喪失といったテーマを掘り下げています。評論家の中野孝次は、この戯曲を「現代における生の構造そのもの」を照射する文学と位置づけ、〈棒〉という存在が観客自身の問題として響き合うと指摘します。
また、ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタは、地獄の使者を「人間世界の他者」「大胆で残酷な世間」と捉え、この作品が人間が社会制度の中で道具化され、人間性を失っていく状況を浮き彫りにしていると論じています。都市生活における普遍的な葛藤や、近代消費社会における孤独、アイデンティティの危機といった「現実社会に存在する問題」を提示することが安部の意図であったと解釈されています。
本作は1969年11月1日に安部公房自身の演出により紀伊國屋ホールで初演されて以来、国内外で繰り返し上演されています。初演では安部真知が美術で紀伊國屋演劇賞を、芥川比呂志が芸術祭大賞を受賞するなど高く評価されました。
また、この戯曲は、元となった小説やラジオドラマだけでなく、安部公房自身が監督した映画『時の崖』（1971年）としても映像化されています。
『棒になった男』は、人間が非人間的なものへと変容する不条理な設定を通して、現代に生きる私たち自身の姿を映し出す作品です。それは単なる劇中のできごとではなく、観客一人ひとりが直面しうる現実であり、自己の存在意義や社会との関わりについて深く考えさせられる、普遍的な問いを投げかけています。
「鞄」「時の崖」「棒になった男」と題された各景は、それぞれ人間の「誕生」「過程」「死」という一生の段階を象徴的に描き出しています。特に、各景で中心となる存在が、人間でありながらも「鞄」「ボクサー」「棒」という特異な姿で描かれる点が特徴的です。
成立背景と構成
これらの作品は、もともと独立した小説やラジオドラマとして構想され、後に戯曲化されたものが組み合わされています。第一景「鞄」はラジオドラマ『男たち』（1968年）から、第二景「時の崖」はラジオドラマ『チャンピオン』（1963年）を経て小説化された『時の崖』（1964年）から、第三景「棒になった男」は小説『棒』（1955年）のラジオドラマ版（1957年）から派生しています。
興味深いのは、これらが一冊の戯曲集としてまとめられた際の構成順序が、元となった作品が生まれた時系列や、安部自身がこれらを構想した順序とは逆になっていることです。安部公房は、これらの景を当初から一本の作品として計画していたわけではないが、組み合わせを意識した際には、それが極めて自然で必然的なものとして感じられたと語っています。
作者の意図
安部公房は、この戯曲全体を貫く重要な仕掛けとして、各景で「鞄」「ボクサー」「棒」という異なる役割を演じる俳優を、必ず同一人物にすることを指定しました。これにより、一見バラバラに見える三つの物語が内面的に結びつき、作品に隠された主題が浮かび上がる「鎖の役割」を果たすと考えたのです。
作品全体の狙いについては、「お化け」が登場する現代の状況をそのまま舞台に映し出し、観客自身がそこに自己の「実像」を見るような「鏡」としての機能を意図したと説明しています。これは、観客と直接対話するわけではないが、一種の「対話劇」として成り立っていると言えるでしょう。
各景の概要
各景のあらすじと、そこで描かれる人間の姿は以下の通りです。
第一景「鞄」: 新婚の女性とその友人の会話を中心に展開します。物語は、女性が夫の持ち物である古い旅行鞄の中身を友人に見てもらおうとする場面から始まります。その鞄からは不審な物音が聞こえ、夫は「先祖」が入っていると言う。鞄の中身を恐れる女性と、それを開けさせようとする友人の間の緊張感が描かれます。人間が「鞄」に変容するという設定を通して、他者との関係性や、見えないもの・理解不能なものに対する人間の心理を探る作品です。ここでは人間が「誕生」し、まだ自己が確立されていない不安定な状態が示唆されます。
第二景「時の崖」: 没落寸前のボクサーが、試合直前の心境からダウンするまでの過程を独白形式で語ります。会社員として働きながらボクシングを続ける彼の内面を通して、人生における挑戦、時間の経過、そして避けられない敗北といったテーマが浮き彫りにされます。ここでは「ボクサー」という存在が、困難な「過程」を生きる人間の象徴として描かれます。安部自身、この作品に関連して、勝利ではなく敗北を運命づけられているとしても、その過程にある束の間の輝きを目指して闘い続ける生があり得る、むしろそれが生の「本質」かもしれないと述べています。
* 第三景「棒になった男」: デパートの屋上から落下し、一本の「棒」になってしまった男の物語。その棒は、地獄からの使者である男女によって発見されます。彼らは棒になった男を「罪なき人々」すなわち「棒の森」の一部として分類し、排水溝に放置しようとする。地獄の使者たちの会話を通して、人間が社会システムの中でいかに道具化され、アイデンティティを失っていくかが描かれます。この景は、現代社会における人間の「死」あるいは「存在の終焉」を象徴し、周囲を指差しながら「君をとりまく、この棒の森……」と語る地獄の男の言葉は、観客自身への強烈な問いかけとなります。
作品の主題と解釈
『棒になった男』は、一貫して現代社会に生きる人間の実存的な問題、特に疎外や孤独、自己喪失といったテーマを掘り下げています。評論家の中野孝次は、この戯曲を「現代における生の構造そのもの」を照射する文学と位置づけ、〈棒〉という存在が観客自身の問題として響き合うと指摘します。
また、ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタは、地獄の使者を「人間世界の他者」「大胆で残酷な世間」と捉え、この作品が人間が社会制度の中で道具化され、人間性を失っていく状況を浮き彫りにしていると論じています。都市生活における普遍的な葛藤や、近代消費社会における孤独、アイデンティティの危機といった「現実社会に存在する問題」を提示することが安部の意図であったと解釈されています。
上演と関連作品
本作は1969年11月1日に安部公房自身の演出により紀伊國屋ホールで初演されて以来、国内外で繰り返し上演されています。初演では安部真知が美術で紀伊國屋演劇賞を、芥川比呂志が芸術祭大賞を受賞するなど高く評価されました。
また、この戯曲は、元となった小説やラジオドラマだけでなく、安部公房自身が監督した映画『時の崖』（1971年）としても映像化されています。
『棒になった男』は、人間が非人間的なものへと変容する不条理な設定を通して、現代に生きる私たち自身の姿を映し出す作品です。それは単なる劇中のできごとではなく、観客一人ひとりが直面しうる現実であり、自己の存在意義や社会との関わりについて深く考えさせられる、普遍的な問いを投げかけています。
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