楽興の時 (シューベルト)

『楽興の時』（がっきょうのとき、Moments Musicaux）D 780は、オーストリアの作曲家フランツ・シューベルトが1823年から1828年にかけて作曲し、1828年に作品番号94として出版した全六曲からなるピアノ小品集です。シューベルトのピアノ曲の中でも特に親しみやすく、日本では多くのCMなどで使用され広く一般に親しまれています。中でも第3番ヘ短調の旋律は特に有名です。

この曲集の題名はシューベルト自身によるものではなく、自筆譜も現存していません。六曲のうち第3番と第6番は、1823年出版の音楽集に「Air russe」（ロシアのアリア）、「Plaintes d’un Troubador」（トルバドゥールの嘆き）というフランス語の題名で先行して含まれていました。1827年から1828年に全六曲が出版された際には誤ったフランス語「Momens Musicals」が題名とされましたが、現在では文法に沿った「Moments musicaux」が広く用いられています。

以下、各曲の特徴を解説します。

第1番 ハ長調
モデラート、4分の3拍子、三部形式。楽想が変化に富み、装飾音が多いのが特徴。中間部はト長調、両手による3連符の動きによる穏やかな旋律で、主部との対比が鮮やかです。

第2番 変イ長調
アンダンティーノ、8分の6拍子、ロンド形式。シチリアーノ風のリズムを基調とし、変イ長調の穏やかな主部が現れます。その間に嬰ヘ短調のエピソードが二度挿入され、特に二度目は突発的な激情を見せ、印象深い対比を生んでいます。穏やかな曲に激情的な部分を挿入するのはシューベルトによく見られる手法です。

第3番 ヘ短調
アレグロ・モデラート、4分の2拍子、三部形式。本曲集で最も有名であり、シューベルト存命中から「エール・リュス」（ロシア風歌曲）として愛されました。左手の単調な伴奏に乗って、右手が和音で歌うように奏でる旋律が特徴的です。このメロディーは、NHKラジオ「音楽の泉」主題歌や、映画「カルメン故郷に帰る」での使用、JR常磐線いわき駅の発車メロディ採用など、日本で広く親しまれています。ピアニストのレオポルド・ゴドフスキーによる技巧的な編曲も存在します。

第4番 嬰ハ短調
モデラート、4分の2拍子、三部形式。右手の無窮動風の旋律を、左手の単調な伴奏が支える構図。中間部は変ニ長調の伸びやかな旋律。エンハーモニックな転調が多く用いられています。

第5番 ヘ短調
アレグロ・ヴィヴァーチェ、4分の2拍子、三部形式。行進曲風の力強い主題を持ち、曲の進行とともに激しい転調を繰り返しながら展開します。

第6番 変イ長調
アレグレット、4分の3拍子、三部形式。落ち着いた間奏曲のような性格。エンハーモニックな転調が多い。中間部は変ニ長調で、ユニゾンによる旋律が奏でられます。一般的な演奏時間は5～6分ですが、内田光子やリヒテルといった演奏家は非常に遅いテンポを選び、10分以上かけて演奏することもあります。

『楽興の時』は、小品集でありながらも、シューベルトらしい豊かな抒情性と表現の多様性に満ちた魅力的な作品群です。それぞれの曲が持つ個性的な音楽的瞬間は、時代を超えて多くの人々に愛され続けています。

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