榎本武揚 (小説)

『榎本武揚』

安部公房の長編小説『榎本武揚』は、これまでの作品群とは異なり、歴史小説としての側面を強調しています。本作は、北海道の厚岸地方に住む元憲兵の旅館主から届いた古文書をきっかけに、徳川幕府海軍副総裁であった榎本武揚の実像を探し出そうとする「私」の物語です。榎本にまつわる古文書は、彼が元新撰組隊士によって告発された内容であり、この作品を通じて、榎本の「裏切り」と「変節」といった複雑な人間関係が照らし出されます。

物語は、榎本が五稜郭を舞台に戦う時期の背景を交えながら進行し、彼の置かれた状況や心情を描写します。世間が「勤皇」か「佐幕」かと二分される中、榎本は双方に属さず、彼なりの帰結を選択していく姿が、独特の視点で描かれています。この小説は、従来の忠誠や裏切りの枠組みを超えた「第三の道」を提供し、人間と時代との関係性を問いかける深みを持っています。

安部公房は、榎本に対して、彼の行動原理が単なる節操の欠如ではないことを示唆します。榎本が五稜郭で共和国を宣言する様は、彼が持ち続けた信念の表れであり、時代に翻弄された彼の姿を通じて、安部は「忠誠」と「裏切り」が持つ相対的な意味を問い直します。小説の中で描かれる榎本の苦悩や戸惑いは、単なる個人のものでなく、戦争における人間の内面に触れた哲学的な問いでもあります。

物語のプロットは、榎本の名が伝説となる過程を観察しながら進みます。「私」は福地から送りつけられた文書を手掛かりに、榎本の実像を追い求めるうちに、彼に寄せられた期待や希望が次第に崩れていく様を感じ取ります。この旅館主自身もまた、時代に裏切られた者として榎本に共鳴していたのですが、その期待が裏切られることで、榎本の本当の姿に対する信仰が乱れていくのです。

小説の内容は、榎本がどのようにして劣勢のもとで戦争に臨んだのか、またそれに対する彼の内面的な葛藤を描写しています。彼の投獄後には、五稜郭の戦いの難しさがさらに浮き彫りになり、榎本やその仲間が直面していた現実が生々しく描かれます。榎本が抱く「勝ち負け」に対する考えは、単に戦争の結果だけではなく、人間としての尊厳や誇り、そして忠誠の意味を考察させる重要なテーマとなっているのです。

また、続編的な戯曲版『榎本武揚』が1967年に発表され、同年には劇団雲によって初演されています。この戯曲版でも、小説同様に榎本の複雑な心情や周囲の反応が描かれていますが、舞台上での表現の自由を手にすることで、より直接的に榎本の姿を描写しています。特に、彼の自由な思想や孤独さが強調され、観客に対して強い印象を与えることに成功しています。

最終的に、『榎本武揚』は時代の変遷の中で自らの信念を問い、自分の存在意義を模索する一人の人間の物語です。安部公房はこの作品を通じて、忠誠や裏切り、そして時代背景に左右される人間の本質的な部分に迫り、その問いかけを読者に投げかけています。歴史を舞台にした小説とは思えないほどの深い人間的な洞察があふれた作品であることが、この作品の魅力を高めているのです。

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