死者の奢り

大江健三郎の商業的なデビュー作として知られる短編小説に『死者の奢り』（ししゃのおごり）がある。1957年8月、文芸誌『文學界』に発表され、同年の第38回芥川賞候補となった。この作品は、作者が東京大学新聞掲載の『奇妙な仕事』で批評家・平野謙の注目を集めたことが執筆のきっかけとなった。発表当時から、その独自の文体と、当時の社会が抱える暗い閉塞感やサルトル的な実存主義思想を巧みに表現しているとして高い評価を受けた。

あらすじ

物語は、「僕」と呼ばれる語り手が、大学医学部で解剖用の死体を扱う奇妙なアルバイトに応募するところから始まる。仕事内容は、アルコール水槽に保管された死体を、実習用のものだけを選んで新しい水槽に移すというものだった。一日の作業を予定されていたこの仕事は、後に無益な徒労に終わることが判明する。

作業の合間の休憩時間、語り手は水洗場で足を洗う一人の女学生に出会う。彼女もまた同じアルバイトに参加しており、妊娠していること、そして堕胎手術の費用を稼ぐためにこの仕事を選んだことを語る。女学生は、新しい命を曖昧な気持ちで迎えることの重大な責任、そしてその命を自らの手で絶つことの避けられない責任との間で深く苦悩し、どうすることもできないやり切れない感情を抱えている様子を描写する。

夕方になり、全ての死体を新しい水槽に移し終えた語り手と女学生は、アルコール溶液の排出作業を待つ間、管理人室で休息をとる。そこで女学生が突然吐き気を催し、部屋の隅で嘔吐する。長椅子に寝かせられ、看護婦が呼ばれる中で、女学生は自らの内なる葛藤を告白する。水槽に横たわる死体を見つめているうちに、「赤ん坊を生んでしまおう」という考えに至ったと語るのだ。たとえ赤ん坊がすぐに死ぬとしても、一度「生まれて」からでなければ、この状況に決着をつけることができないと感じていた、と彼女は明かす。

しかし、事態は予期せぬ方向へ転がる。管理人室に戻ったところで、大学医学部の助教授が管理人に話している内容を耳にする。事務室の手違いにより、本来は古い死体はすべて死体焼却場で火葬することに医学部の教授会で既に決定していたというのだ。新しい水槽に移した死体も、結局は焼却場のトラックに引き渡されることになる。この突然の変更に管理人は狼狽するが、文部省の視察が翌日に迫っており、それまでに両方の水槽を清掃し、溶液を入れ替えなければならないという事情を聞き、渋々承諾する。管理人は語り手に対し、アルバイトの説明をしたのは事務員であり、自分ではないことを覚えておくようにと念を押す。

語り手は、一晩中作業を続けなければならないこと、そして報酬を得るためには自ら事務室に交渉に行かねばならないであろうことを悟りながら、階段を駆け降りる。しかし、喉の奥から込み上げてくる、膨れ上がったような、厚ぼったい感情は、飲み込もうとするたびに執拗に押し戻されてくるのだった。この感情は、彼が費やした労力が結局は何の意味も持たなかったこと、そして生と死、責任といった重いテーマに触れた経験がもたらした、割り切れない複雑な心境を象徴している。

評価・研究

本作は発表以降、様々な角度から論じられてきた。特に、題材やモチーフにおいて、横光利一の短編『眼に見えた虱』と多くの共通点があることがしばしば指摘される。閉塞感や希望喪失といった初期大江文学の特徴、そして『万延元年のフットボール』以降の「村の再生」という主題の変遷にも、横光文学の軌跡との対応が見られると考察されている。

また、大江健三郎はデビュー当時からジャン＝ポール・サルトルの実存主義の影響を強く受けた作家と見なされていたが、この『死者の奢り』について、批評家の江藤淳は異なる視点を示している。江藤は本作を「実存主義を体よく表現した小説」と捉えるよりも、むしろ安岡章太郎や川端康成といった日本の叙情文学の流れに連なる作品ではないかと分析している。これは、作品が思想をそのまま描くのではなく、登場人物の内面や感情の機微を深く掘り下げている点を評価した見方と言えるだろう。

『死者の奢り』は、単に哲学的なテーマを扱っただけでなく、若者の直面する不条理な状況、生と死、そして人間が負うべき責任といった普遍的な問いを投げかける作品として、現在も読み継がれている。また、この作品が、後に都市伝説として広まる「死体洗いのアルバイト」のイメージに影響を与えた可能性も指摘されている。

収録状況

本作は、大江健三郎の代表的な初期短編として、様々なアンソロジーや全集、文庫に繰り返し収録されている。初版の単行本『死者の奢り』（文藝春秋新社）をはじめ、『死者の奢り・飼育』（新潮文庫）など、多くの読者に親しまれる形で流通している。

もう一度検索